広島電鉄物語 第二部「動く路面電車の博物館」④
高度成長期の1965年前後、モータリゼーションによる乗客減で経営危機に陥った広島電鉄。人員減や賃金カットを含むあらゆる経費の削減などに取り組んだ。しかし、経営の状況は劇的には改善しなかった。
この大ピンチをどう乗り越えたのか。
広電の社史などによると、当時の奥窪央雄・電車部長は、利用客が激減した問題の根源は「電車の軌道敷内に自動車の乗り入れを認めたことにある」と考えた。63年、広島県警が、道路交通法で禁止されていた軌道敷内への乗り入れを県公安委員会の権限で解禁していた。
そこで奥窪部長は県警に直接足を運び、以前のように車を軌道敷内に入れさせないよう求めた。
再規制の理由にあげたのが、公害やひどくなるばかりの交通渋滞だった。それらを改善するために「路面電車の機能を復活させることが必要だ」と訴えたのである。
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奥窪部長は、広電を何とか守りたいという気持ちが強かったようだ。広電で運輸課長を務めた和田哲朗さん(82)が当時を振り返り、「『うちは大丈夫ですか』と聞いたら、奥窪さんから『一度(電車を)やめたらもう元に戻せないぞ』とむきになって言われた」と明かす。
奥窪部長の訴えは功を奏した…
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