第4回空襲、そして車社会の到来…苦難乗り越え、街を駆けた広電車両たち
広島電鉄物語 第二部「動く路面電車の博物館」②
関西や九州から来た「移籍組」の路面電車がいまも多く残り、「動く路面電車の博物館」と呼ばれる広島電鉄。連載2回目では、1960~70年代に移籍した車両とその背景に迫る。
■900形 ワンマンカーで広島デビュー
900形(913号)は1969年、750形と同じく大阪市交通局(当時)から14台購入した。50年代前半に造られた鋼鉄製の車両で、750形同様のベージュにえび茶色のツートンカラー。広電は当時、乗員削減のため、電車のワンマン化を図ろうとしており、広島市内の白島と八丁堀を結ぶ広電「白島線」でワンマンカーとして69年にデビューを飾った。
70年代に広島を訪問した元大阪市電の運転士が、現役で活躍しているのを間近で見て涙した、との逸話が広電に残る。ただ、車両はその後、韓国やタイに譲渡されたり、廃車になったりして、いま残るのは一車両のみだ。
913号の車体は、30年代に米国で造られた「PCCカー」と呼ばれる、軽量かつ高性能の路面電車の車体の特徴を受け継ぐ。PCCカーは、米国で急速に進んだモータリゼーションに対抗してつくられた車両だ。ただ、エンジンなど走行機器は旧型電車のもので、「運転席が明るく、車内の明かりを反射して軌道が見にくい」(ある運転士)との声もある。
■570形「強運」と「動物」
570形(582号)と1150形(1156号)はともに1971年、旧神戸市電の廃止に伴い、神戸市交通局から広電に譲渡された。いまも朝夕のラッシュ時を中心に営業運行している。582号は、神戸空襲を生き残った車両で「強運電車」の異名がある。
1156号は、車体に虎やライオンなど動物のイラストが描かれた広電唯一の「動物電車」。広電の車両のなかでは、子ども向けのような外観で異質だ。夜に走る姿を見て「ナイトサファリ」と名付けたシャレの利いたファンもいる。なぜ、「動物」が描かれたのか。こんなエピソードが伝わる。
1968年、広島国際青少年協会の代表者がドイツのハノーバー市を訪問したことがきっかけで、広島市との交流が始まった。広島青年会議所と関わりのある若手大学教員や実業家でつくる「SAS 広島の未来を考える会」は77年ごろ、広電の路面電車に、ハノーバー市内を走って現地の子どもたちに親しまれている「動物電車」と同じような車両を加えることを提案。ちょうど路面電車のデザインを募集していた広電はその提案を受け入れ、SASにデザインや塗装を依頼し、78年にいまの「動物電車」を完成させた。このため、車体の横には「ハノーバー市にはこんな電車が走っています」との言葉が書かれている。
1156号は広電の動物電車としては「2代目」にあたる。初代も旧神戸市電から譲り受けた1105号で、事故で廃車となっている。
■1900形「壊れない人気者」
1900形(1901~1915号)は、1979~81年に京都市交通局から計15両を購入した。ベージュと濃緑のツートンに、オレンジ色の2本線が横に入るデザインの車両が淡々と走る光景は市内になじんでいる。
広電は購入後、15両の名前を一般公募し、1万通近くあった応募の中からそれぞれ名前を決めた。1901号から1915号まで、順番に「東山」「桃山」「舞妓」「かも川」「比叡」「西陣」「銀閣」「あらし山」「清水」「金閣」「祇園」「大文字」「嵯峨野」「平安」「鞍馬」と、いずれも京都にゆかりのある言葉が選ばれた。
この電車で特筆すべきなのは、広電移籍後40年以上もたっているのに一両も廃車にならず、いまも日々フル稼働で営業運行していることだ。
その理由には「大型で出力が強い」「整備しやすい」など車体の良さが挙げられている。ただ、複数の広電関係者に聞くと、「運転士が使いやすい」のが最大の理由ではないかと感じる。
運転士の中田裕一さん(57)は「京都時代から引き継いだ、右折時に足で鳴らすフートゴング(警笛)の音がいいという運転士もいるが、とにかく運転しやすいという声がある。前頭部にある二つのライトが、運転士にとって一番見たい道路の先を照らしてくれるので、夜間の運転も心配がいらない。旧京都市電はなぜ、こんないい電車を手放したのかと思うぐらい」と語る。
■600形「のろまなフェラーリ」
600(602号)形は、1975年の西日本鉄道(西鉄)北九州市内線の廃止に伴い、77年に購入した車両だ。広電社員の間で「フェラーリ」の愛称で知られる。路面電車の速度はゆっくりなのに、なぜ、高級スポーツカーのフェラーリなのか。
まず、車両の顔が細めの馬面…