戦後盛り場だった新橋、レトロビルに残る味 再開発進む

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大山稜
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 れんがアーチ構造の高架下。広々とした駅前を埋める雑踏――。「サラリーマンの街」の原型が写しだされている。1946年1月17日の朝日新聞に掲載された写真。国鉄新橋駅西口の広場で開かれた祭りに集まった群衆の姿が残されている。後に「SL広場」と呼ばれる場所だ。左側のステージには歌謡曲を歌う芸者の姿も映る。

 港区史などによると、広場には終戦の翌々日ごろから露天商が品物を並べだし、徐々にその数が増えていった。1カ月が経ったころには空腹を抱えた人々がぞろぞろと集まり、「ヤミ市」が自然発生。焼け跡から探し出した廃材で建てたバラックが並んだ。広場では祭りやのど自慢大会がたびたび開かれ、戦後復興の活気にあふれる盛り場だったという。

 「舞台を眺める大勢の顔。幼心に覚えていますよ」。宮崎克彦さん(76)はそう話す。1943年生まれ。父がサイパン島で戦死し、伯父で初代港区長を務めた井手光治氏に引き取られた。祭りの来賓だった井手氏に連れられ、舞台上から祭りを見ていた。

 暴力団がひしめき、縄張り争…

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この記事を書いた人
大山稜
仙台総局|行政担当
専門・関心分野
気象、防災行政、労働