季節ごと、景色変える滝(駅 三江線35の物語:6)

奥平真也 市野塊
【動画】三江線・式敷駅での列車発着=市野塊撮影
[PR]

 作木口駅(島根県邑南町上田)も、江平(ごうびら)駅と同様に江の川と里山に挟まれた静かな駅だ。駅は県境にあり、すぐ横の三国橋を渡ると広島県三次(みよし)市作木町(旧作木村、2004年の合併で三次市に)に入る。

 ホーム上の名所案内には「常清(じょうせい)滝」とある。歩いて35分とのこと。暖かくなった3月中旬、足を運んでみた。駅から歩いてもいいが、滝から約500メートル下った場所に駐車場がある。そこから遊歩道を歩くと15分ほどの道のりだ。きれいな水をたたえた沢沿いを登ると空気がおいしい。やがて滝つぼの音が響き始め、目の前に美しい滝が現れる。樹木の間を水が落ちる姿は水墨画のようだ。

 常清滝は広島県の名勝で高さ126メートル。同県で唯一「日本の滝百選」に選ばれている。寒さの強い年には凍結することでも知られ、今年2月にも氷瀑(ひょうばく)となった。

 展望台からしばらく絶景を眺めていると、カメラと三脚を抱えた5人組がやってきた。広島市安佐北区可部の写真愛好家グループで70~90歳の男女。そのうちの1人、飯田俊信さん(82)によると、常清滝は年に3~4回訪れるという。「春の新緑、秋の紅葉。来るたびに景色が変わるいい滝です」

 この日の姿について、「水が多くていいね、まあまあよ。新芽の季節にはまた来ないけんですよ」。笑顔でシャッターを切っていた。この後、宇都井(うづい)駅(邑南町)近くまで行って三江線の車両も撮影する予定と話した。

六角形のログハウス風

 香淀駅(広島県三次〈みよし〉市作木町門田〈もんで〉)には木造の駅舎がある。六角形のログハウス風。無人駅が多い三江線の中では目を引く存在だ。

 市作木支所によると、1996年1月に旧作木村(2004年の合併で三次市に)が建てた。広さ約40平方メートルあり、ベンチやトイレが備え付けられている。

 駅舎内にある自由帳を開くと、鉄道ファンにも評価が高い様子だ。「モダンできれいな駅舎はいいですね」「建物はずっと残してほしいですね」……。「香淀駅で駅寝予定」「あいにくの雨ですが駅舎のある駅につくとほっとします」などの記述も。風雨がしのげる駅舎は貴重な存在のようだ。

 今月上旬、線路沿いの道路をてくてく歩いている1人の男性がいた。香淀の駅舎で声をかけると、宮城県から訪れた58歳の鉄道ファン。「くねくね曲がった線路や、周りの自然と溶け込んだような駅が三江線の魅力」と言う。1週間ほど滞在して沿線のあちこちを見て回る予定とのことだった。

 高齢化が徐々に地域を変えつつある。駅近くの線路沿いに住む男性(73)によると、かつては地域住民がボランティアで駅舎や駅前を掃除していたが、「みんな年を取ってしまって」取りやめに。今は市の職員が気付いた時に掃除をしている。

 男性はかつて妻と2人で、JRの許可を得て自宅と線路の間に花畑を作っていた。近所の人が花の株を持ち寄るなど交流の場だったが、妻の病気で続けられなくなった。今はただの空き地。「三江線がなくなるのは寂しいですが、私も乗らないですからね。赤字のまま存続するのも難しいでしょうね」と男性はさみしげに笑った。

 駅舎と駅前広場は、市が代替バスのターミナルとして活用する方向だ。(奥平真也)

後鳥羽上皇 面影残る地

 式敷駅がある広島県安芸高田(あきたかた)市高宮町周辺には、後鳥羽上皇(1180~1239年)が立ち寄ったという伝説がある。式敷という地名も上皇が訪れた際に使われた敷物に由来すると伝わっている。

 後鳥羽上皇は鎌倉幕府にあらがい、承久の乱(1221年)を起こしたが失敗し、隠岐へ流刑となった。武芸に優れ、詠んだ和歌は百人一首にも収められた。京都から隠岐への道のりははっきりせず、式敷駅近くに来たかどうか明確ではないが、一帯には墓碑や御陵が残っている。

 駅近くにある蓮照(れんしょう)寺。高宮町史(1976年発刊)によると、寛文10(1670)年に式敷に移築された。そこに残るのはやはり後鳥羽上皇の坐像(ざぞう)だ。市重要文化財で高さ27センチの寄せ木造。制作年や作者は不明だが、伝説がこの地に根付いていることを裏付ける。

 住職の瀬沢唯見(ただみ)さん(70)によると、かつては後鳥羽上皇の位牌(いはい)を訪ねて鉄道で足を運ぶ人もいたが、今は参拝者が少ない。車が普及すると住民も三江線にあまり乗らなくなった。「私も乗らんしな。雪も多いし、維持が難しいんだろう」

 式敷駅は三次(みよし)駅との間を結ぶ国鉄三江南線の発着駅として1955年に開業した。上下2本の本線の間に島式のホームがあり、ログハウス風の休憩所もある。

 駅前には閉店したガソリンスタンドと商店が残っていた。経営していたのは半世紀ほど前に父の後を継いだ深井達雄さん(74)。高校を出て広島市内で雑貨問屋をしていたが、20代で古里に戻った。

 元々は食料品を売るよろず屋だった。駅の開業後は酒屋や商店の部分が増改築され、妻が商店、深井さんがガソリンスタンドと夫婦で切り盛りした。駅前に発着していたバスの切符も販売した。

 駅ができて街も人も活気づいていた。島根側の区間が開通し、三江線の全線がつながったのは75年。70年代は深井さんら地元の若い男たちが集まり、盆踊りや収穫祭など地域をにぎやかにする方法を議論したという。「持ち寄った豆腐をつまみに酒を飲んで、街の未来を話し合った」

 バブルの時は「年商が1億円を超えた」そうだが、その後は客足が減っていった。「商売をしてもつまらなくなった」と、2010年ごろに店もスタンドもたたんだ。

 栄枯盛衰を味わった後鳥羽上皇の面影が残る土地。式敷駅は鉄道の駅としての役割を終えようとしている。廃線について、瀬沢さんと深井さんは「仕方ないかな」とさびしそうに口をそろえた。

夫婦で地域医療貢献

 広島県安芸高田(あきたかた)市高宮町佐々部に信木駅ができる10年前の1946年。今の信木駅から坂を上った高台に医院が開業した。後に旧高宮町議なども務めた香川九郎さんが夫婦で営んだ香川医院だ。約40年もの間、地域医療に貢献し、近くの小学校の校医も担当した。

 信木駅は江の川のほとりにある単式ホームの静かな無人駅。近くの広場でゲートボールを楽しんでいた中崎好身さん(87)は、香川医師を「とても良い先生だった」と振り返る。優しく何でも相談に乗ってくれたという。腕も良く、40代でぎっくり腰になった時は注射1本で楽にしてくれた。動けないと往診にも来てくれ、住民の人気者だった。

 香川医師の兄の孫に当たる香川洋之助さん(74)は「公平でわけへだてなく、みんなに優しい人だった」と話す。洋之助さんによると、香川医師は45年8月、勤めていた広島市内の陸軍病院で被爆した。重傷を負ったが、同じ医師だった妻の手当てで回復した。その後、古里の高宮町に戻り、医院を開いたという。

 香川医師が内科、妻が小児科を担当し、様々な診察を受け持った。近くに病院が少なかった当時、信木駅ができると多くの沿線住民が駅から医院に向かった。

 昭和の終わりごろ、香川医師の死去に伴い、惜しまれつつ医院は閉鎖された。それを機にできたのが駅前の石碑だ。「永く徳を賞揚し敬仰するものである」、制作者は「信木住民一同」と刻まれている。

 主人がいなくなった医院は現在、住居として貸し出されている。住人の吉岡和平さん(71)は香川医師のうわさを今でも聞くという。「温情がある人」「面倒見がよかった」。外観だけになったが、医師の記憶は今も人々に残っている。

世界広げた列車通学

 近くの江の川に赤い唐香(からこう)橋がかかる所木駅(広島県安芸高田〈あきたかた〉市高宮町船木)。単式ホームで駅舎がなく、道路から直接入ることができる無人駅だ。

 開業は1956年。駅前の高台に住む川野英子さん(68)が小学生のころだった。鉄道が通って川野さんの中学生活は大きく変わった。本来なら学区内の高宮中に通うのだが、山の上にあり、自転車通学にはつらい。三江線ができたことで、体が弱く熱が出やすい川野さんを両親が心配し、列車通学ができる中学に進むことになった。

 学区が違う三次(みよし)中に通うため、三次市に住む親戚の養女になった。自宅住まいは変わらなかったが、「なんで私だけ友達と離れなきゃならんのか嫌だった」と振り返る。名字は川野から清正に。学校で呼ばれてもピンと来なかった。

 予想外に始まった列車通学。列車の接近を知らせる「カンカンカン」という踏切の音を合図に、家を出れば間に合った。所木駅を出発したころは知り合いが誰もいないが、三次市の学区内に入ればどんどん友人が乗ってきた。特に友人が多いのが粟屋(あわや)駅。到着するのが楽しみだった。

 不思議な因縁もあった。小学生の時、田んぼでシジミを捕っているとちょっかいを出してきた男の子が、同じ列車に制服姿で乗っていた。思い切って話してみると同じ中学で同級生。「いじめたやろ」と追及すると、「覚えてない」としらばっくれる。それでも通学で一緒になると、話をする仲になった。

 三次への通学は最初は嫌だったというが、たくさんの新しい友人が出来た中学生活を思えば、行けてよかったと感じている。最近は三江線に乗ることはなくなったという川野さん。今でも高台の家にいれば、「カンカンカン」が聞こえる。「生活の中の音がなくなるのはさびしい」と話した。(市野塊)

有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません