
朝8時、日比谷線の車内で目の前にいた男は、どこか不自然だった。
何かに怯えているように座っている。雨でもないのに、傍らには1本のビニール傘。満員電車の中で、しきりにキョロキョロと周囲を見渡していた。通学中の高校1年生、木村アンナ(当時16・仮名)は違和感を覚え、男を横目で観察した。
電車が恵比寿駅のホームに滑り込むと、男はおもむろに立ち上がり、足早に出口へ向かった。
「あの人、変だったよね」
友人2人と話していると、男が座っていた座席の足下に新聞紙が落ちているのが見えた。じわじわと液体が染み出している。
液体は徐々にこちらへと広がり、ローファーの足先が濡れていた。
「最悪……」そう思った直後、異変に気づいた。
――息が、できない。
運命の日
1995年3月20日の朝、東京の地下鉄日比谷線、丸ノ内線、千代田線の計5車両で「オウム真理教」の信者らが猛毒の神経ガス「サリン」を散布。乗客や駅員ら14人が死亡し、約6300人が負傷した。
ヨーロッパ出身の父と日本人の母との間に生まれたアンナは、13歳の時、父の仕事の都合で日本に越してきた。
幼い頃からシャイな一方、正義感が強い性格だった。それはきっと、それまで住んでいた国での経験が培ったものだと思う。
治安が不安定で、予測不可能なできごとに周りの大人たちが声を掛け合う姿を見てきた。率先して声を上げ、助けを求め、互いに守り合う。そんな勇気が大切だと信じてきた。
1995年3月20日の朝は、まさに予測だにしない光景が広がった。
サリンに浸ったローファー
床に放置された新聞紙から、どくどくと液体が流れ続けている。新聞紙の中には、横幅20㎝ほどの容器が包まれているようだった。
足元のローファーは既に水たまりに浸っている。車内には、ツンと鼻を刺す臭いが広がっていた。
息苦しさは増し、まるで水の中で溺れているような感覚だった。
それでも、車内はいつもと変わらない静けさだった。無造作に置かれた小包から液体が広がっていく光景と、静かな車内の対比が、不気味だった。
そばにいる友人を見やると、その目が「何かがおかしい」と訴えていた。視線と身振りで、急いで降りようと伝え合った。
次の広尾駅までのわずかな距離が、果てしなく遠く感じられた。咳き込む声が車内の至る所で聞こえ始めた。周囲の乗客も怪訝な表情を見せている。
「とにかく、早く誰かに伝えなきゃ」
広尾駅で扉が開いた瞬間、友人とともにホームに飛び出した。
「電車を止めてください!」肺の奥からこみ上がる咳を吞み込み、駅員に向かってたどたどしく言葉を繋げた。
「なにかが車内でこぼれて変な匂いがして、みんな息ができないんです」駅員は困惑したようだったが、電車はそのまま走り去ってしまった。
うまく伝えられなかった。無力感に襲われながら、その場を後にした。
「病院へ来てください!」
しばらくすると症状は落ち着いたが、いつもと変わらない街の様子には、釈然としなかった。
あれは何だったのか。私の気のせいだったのか。胸のつかえは消えないままだった。
しかし、1時限目の体育の授業中、突然、1台の車が校内に走り込んできた。近隣の病院のスタッフを名乗る人物が声を上げた。
「8時過ぎの電車に乗っていた方は、病院へ来て下さい!」
それからの一日は、めまぐるしく過ぎていった。
病院に運ばれると、警察官から「不審な人物を見なかったか」と尋ねられた。点滴を受けながら記憶がまだ残っている間に目撃した男の姿を伝え、スケッチを描いた。
一日中、検査を受けたが、特段の異常は見つからなかった。安堵する一方で、言い知れぬ不安は残った。「いつ重い症状が出るかわからない」。そう考えると、怖くてたまらなかった。
現実から目を背け・・・「私は平気」
数日間、学校を休んだ。倦怠感が抜けず、自室に閉じこもった。
再び学校に行き始めると、何気ないそぶりで明るく振る舞った。
「私は別に平気だよ」本当は、不安に向き合うのが怖かった。自分が大事件の渦中にいたという事実を、見ないようにしていた。
「息ができない」数ヶ月後に突然起きた“体の異変”
しかし数ヶ月後、通学中の日比谷線で扉が閉まった瞬間、突然体に異変が起こった。
息が、できない。
あの日とは違い、車内には何の異変もない。何が起こったのか自分でも分からず、誰にも相談できなかった。
「私は平気」
そう繰り返していた自分が、本当はずっと苦しかったんだと思い知らされた。
PTSD・心的外傷後ストレス障害という言葉を知ったのは、それから何年も経ってからだった。
16歳の少女は母に…子どもに伝えたい想い
あの日から30年が経つが、今もまだどこかで強がっている自分がいると感じる。
5年ほど前、テレビで遺族の女性がインタビューを受けている姿を見た。その涙に、胸が押しつぶされた。あの日、私が電車を止められていたら、と。
何度も考えた。私には、事件を語る資格があるのだろうか。「本当はつらかった」と打ち明けてもいいのだろうか。
ただ一つ確かに言えるのは、あの日から背負い続けた静かな痛みは、今も心の奥底に染みついているということだ。
あの日、16歳だった私は、母になった。子どもにはこう伝えたい。
「自分の感覚を信じなさい。迷ったときは、自分で決断しなさい。そして、その選択が未来を変えられる力を持っていることを、忘れないで」
記者にそこまで語ると、遠くを見やりながら、ぽつりとつぶやいた。
「今日まであの頃の自分の痛みとちゃんと向き合ったことがなかったかもしれない」
過去の自分を認めて、やっと今を生きていける――
30年を経てようやく心の整理がついてきたと語る。視線の先にはきっと、毅然と振る舞う16歳の少女がいる。
《敬称略》