「砂の器」の舞台、なぜ奥出雲? 元NHKプロデューサーが探り本に

垣花昌弘
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 松本清張原作の映画「砂の器」が公開されて今年で50年。このほど、島根県奥出雲町のJR木次線沿線で当時行われたロケの記憶をつづった書籍「『砂の器』と木次線」が刊行された。沿線の地名「亀嵩(かめだけ)」や地元の出雲弁は事件の謎解きの鍵となっているが、なぜ清張は、執筆前に一度も訪れたことがない亀嵩を舞台に選んだのか。その謎に迫っている。

 筆者は「プロジェクトX」などの制作に携わった元NHKプロデューサー村田英治さん(58)。木次線沿線の旧横田町(現奥出雲町)生まれで、小学3年の頃、実家近くの八川(やかわ)駅にロケ隊がやって来た。そのとき、刑事役の丹波哲郎さんから直接サインをもらったという。

 なぜ亀嵩が物語の重要な舞台となったのか。村田さんは2022年にNHKを退職後、古い新聞記事などの資料を調べ始め、23年4月に松江市に引っ越し、ロケの協力者らにも取材を重ねた。

 清張の父は奥出雲に接する現在の鳥取県日南町の生まれで、同県米子市に養子入りした。本著では、父が話す西伯耆(ほうき)地方のなまりは出雲弁と共通する特徴が多いと指摘。清張は戦後間もなく、ほうきの仲買をしながら各地を巡っていて、亀嵩という地名はその頃に知ったのでは、と推測する。亀嵩を舞台にする着想は清張の前半生にルーツをたどれるとしている。

 原作の出雲弁がリアルなのは、「砂の器」を連載していた読売新聞の地方取材網を生かし、地元の人に方言を校正してもらったからだという。

 木次線沿線でロケがあったのは1974年8月。映画は同年10月に公開された。すぐに下を向いてしまって野村芳太郎監督に叱られたと振り返るエキストラの女性、人集めで頼りにされた旧木次町青年団の演劇部、俳優らが宿泊した旅館の人たちの話も紹介。なかでも興味深いのが、駐在所の巡査を演じた緒形拳さんが、ロケで知り合った呉服店を3回も訪れ、宴(うたげ)を楽しんだという話。明治生まれの店の創業者から、出雲弁を学んでいたという。

 地元の熱望で開通しながら、戦後は車の普及で衰退していく木次線の歴史も解説している。撮影は亀嵩駅ではなく、八川駅の駅舎と出雲八代駅のホームを亀嵩駅に見立てて行われた。亀嵩駅には現在も続くそば屋が駅舎内にあったためにロケが見送られたとも言われているが、そば屋ができた理由が木次線の歴史と関わっていることも明かされる。

 村田さんは「当時を覚えている方がいっぱいいらっしゃって、想定以上にいろんな話が出てきた。それぞれの記憶の中にあるものを形にできて、地元の人たちにも喜ばれました。映画の亀嵩の場面を深く掘っていくと、清張の半生と木次線の歴史が見えてくる。映像の向こう側にあるものを感じてもらえたら」。

 ハーベスト出版刊。322ページ、四六判、税込み1980円。

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