信越本線を代表する特急といえば「あさま」ですが、その「あさま」のフォロワーとして、そして首都圏と北陸を結ぶ重要な使命を帯びていたのが、上野-金沢間を結んだ特急「白山」です。

昭和47年3月に急行から特急に “昇進” した「白山」は急行時代の一瞬、福井まで運転されていたことがありましたが、それ以外は上野-金沢間という運転区間に終始一貫していました。

特急格上げ当初は1往復、その年の11月に1往復増えて2往復、そして翌年の10月にもう1往復増えて3往復体制となります。ダイヤ改正時に増発するのは至極普通ですが、そうでない中途半端な時期に増発するというのは、よほど「白山」の需要が高かったからだと思われます。

 

上野-金沢間の先人特急に「はくたか」がありますが、当時の「白山」と「はくたか」はあくまでも別系統。「白山」が金沢運転所(金サワ)の489系を使ったのに対し、「はくたか」は向日町運転所(大ムコ)の485系を使用。元々、「白鳥」の上野編成が独立して、上越線経由に改められて「はくたか」を名乗ることになるわけですが、どちらかと言えば関西色が濃くて、気動車時代から継続して向日町の車両を使っていました。

 

53.10改正までの「白山」は俗に「金沢方式」と呼ばれる、グリーン車2両、食堂車1両を組み込んだ12両編成でしたが、改正後は食堂車を外した12両編成となりました。また、後述する信越本線災害で一時期的にサシとサハを抜いた10両編成で運転されたりしていました。

その信越本線の災害なんですが、昭和53年5月に発生した土石流災害で妙高高原-関山間が4ヶ月間不通になったことがありました。それを受けて、3往復運転されていた「白山」のうち、1往復(下り1号、上り1号)を上越線経由で金沢まで、1往復(下り2号、上り3号)を妙高高原止まり、そしてもう1往復(下り3号、上り2号)を長野止まりにしてそれぞれ運転をしました。車両の遣り繰りの関係から、暫定措置で189系を使用したケースもあったようです。

 

「白山」にとって53.10改正はある意味で革命的な改正になります。

まず、編成から食堂車が外されて、グリーン車2両込みの12両編成となりました。そしてこの時から「はくたか」と手を組むことになり、首都圏で向日町の車両が見られなくなりました。明るい話題と言えば、この改正から「白山」はエル特急に “推挙”されました。

3往復運転は変わらないのに、何故エル特急に?

昭和47年から制定されたエル特急は、特別な制定ルールというのはあるっちゃあある、無いっちゃあ無いんだけど、「数自慢・カッキリ発車・自由席」というキャッチフレーズからすれば、3往復しか設定されていない「白山」は、数自慢ではありません。でも「エル特急」は国鉄が放った久々のヒットパッケージで、ブルートレインと並び称される当時のガキ鉄(私もその中に含まれます)のアイドルですから、国鉄もそこを狙ったんでしょうね。いつぞやお話ししたことがありますが、規定に達しなくても「箔が付くからエル特急にしちまえ」と53.10改正ではそんな列車が多数出没しました。

「はつかり」「やまびこ」「つばさ」「やまばと」「くろしお」、そして「白山」がこの改正でエル特急に “推挙” されるわけですが、この改正で電車化されて9往復が運転されるようになった「くろしお」は満場一致。1往復増えて6往復になった「はつかり」もまあまあ文句なし。ではそれに達していない「やまびこ」「つばさ」「やまばと」「白山」はどうしてエル特急になれたのか? 隠れた忖度があったのかもしれませんが、例えば「やまびこ」。53.10改正で1往復増発されたものの4往復しか設定されていませんが、盛岡まで「はつかり」とバッティングしており、「「はつかり」のグループにする」ことでエル特急に。「つばさ」と「やまばと」も同じ考え。上野-山形間で「つばさ」と「やまばと」はバッティングしますが、「つばさ」と「やまばと」をグループにすれば、3往復+3往復でエル特急としての資格を得ることが出来ます。

 

では「白山」は?

想像に難しくないと思いますが、「あさま」のグループに組み込んだんですね。系統が違うようにも見えますが、直江津まで「あさま」とバッティングしていますし、間合いで489系を「あさま」に充当したりしていましたから、その理屈で「あさま」と「白山」をグループ化します。「あさま」は既にエル特急になっていましたが、「白山」をグループに組み入れて盤石の体制を築きます。

 

どれもこれも屁理屈且つ強引なやり方なんですが、前述のように当時はエル特急を意味する「L」の文字が入るだけで箔が付いた時代。一部の老いた鉄道愛好者からは「特急の叩き売りだ」と批判しましたが、ここから東北・上越新幹線が開業する昭和57年までが新旧入り乱れた列車や車両が行き交う、上野駅が一番華やかだった時代だったのかもしれません。

 

画像はいつ撮られたものかは判りませんでしたが、金沢へ向かう下りの「白山」だと思われます。

当時の489系は事実上の「白山」専用車両で、489系が登場しなかったら「白山」も特急になれなかったのは確か。橫軽対策が施されているという点だけが特殊で、あとは485系と同一仕様ですが互換性はあったのかな? 時折、「雷鳥」や「北越」なんかで489系が充当されることがありましたが、485系と489系の混結は出来るとは思うけど、常時は無かったような記憶があります。

 

それにしても、国鉄にとって看板商品であるはずの特急用車両にも春闘時になると画像のようにアジテーションが書き込まれたビラを貼り巡らすなんざぁ、「何処まで国鉄の職場は腐敗しきっているんだ?」とあるとあらためて感じるわけですが、これはまだ大人しい方なのかな。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

国鉄監修・交通公社の時刻表 1978年8月号 (日本交通公社 刊)

日本鉄道旅行歴史地図帳第6号「北信越」 (新潮社 刊)

エル特急大図鑑 (天夢人社 刊)

ウィキペディア(あさま、信越本線)