《前回からのつづき》
EF81形の増備と運用の見直しなどにより、その役目を再び明け渡していったのでした。特に、EF81形は新製当初は糸魚川駅で直流機交直流機*1に付け替えるなどして、長距離運転をしなかったのでしたが、国鉄の合理化施策により北陸本線だけでなく、信越本線、さらには羽越本線、奥羽本線へと運用範囲を伸ばしていき、最終的には1両のEF81形が関西圏から東北日本海沿岸の各都市、さらには青森までのロングラン運用が常態化していきました。EF81形の3電源対応という性能の前に、交流機であるEF70形はもはやその存在意義を完全に失ってしまったのです。
さらに止めを刺すかのように、1984年のダイヤ改正、いわゆる「ゴー・キュウ・ニ改正」で、貨物輸送のヤード継走方式の完全廃止と拠点間輸送方式への転換、貨物列車の大幅削減はもはやEF70形が活躍する余地を完全に失ってしまいました。
国鉄の交流電機の歴史は、技術開発の歴史といっても過言ではないだろう。初の交流試作電機のED44形は、交流電流を直接制御する触接式、次いで開発されたED45形は交流を直流に変換、整流器に水銀整流器を使うなどして、当時の技術を惜しむことなく投入した。その後シリコン整流器が開発されるとED74形で実用化、ED75形からは低圧タップ切換とし、ED77形でサイリスタ位相制御を確立させた。このように、時代が進むとともに開発された最新技術を投入したことで、形式ごとに機器や特徴がことなるものとなった。ED45形は試作車の一つで、その歴史を後世に語る存在として宮城県の利府町で保存されていたが、長年、風雨にさらされた状態で車体が劣化したこと、変圧器に使われていたPCBの問題もあって、2022年に解体処分されそのすがたを消していってしまった。(©Mutimaro, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
結局、このダイヤ改正をもって敦賀二区には車両配置がなくなり、全機が富山二区へ転出とされましたが、実際には敦賀二区に留置されたままのいわゆる書類上の配置転換となり、北陸本線の各地に留置されたまま休車となっていきました。そして、1985年のダイヤ改正で全機が運用離脱し、1986年のダイヤ改正をもって全機が廃車となり、その波乱に満ちた歴史に幕を閉じました。翌1987年の国鉄分割民営化では、1両も新会社へ継承されることなく、ごく一部の保存機を除いて解体されていきます。
一方、九州に渡った門司区配置のEF70形も同様に、1982年以降は運用されることがなくなり、各地に留置されたまま休車措置がとられ、やはり1986年のダイヤ改正までに全機が廃車され、この年をもってEF70形は形式消滅しました。
今日、EF70形が現存しているのはたったの1両、P型改造を受けた1001号機だけとなりました。以前は0番代一次形、二次形ともに保存されていた車両もありましたが、残念ながら1001号機を残して解体され現存していません。
筆者として、特に残念だったのがJR西日本敦賀運転所に保存されていた1号機と、JR貨物吹田機関区に保存されていた70号機です。前者は北陸トンネル開通の時代を伝える歴史の証人としての価値があると考え、また後者は九州に転用されて波乱に満ちた歴史の持ち主であること、さらにどちらも国鉄から継承した新会社であることから、長期に渡る保存も期待できました。しかしながら、どちらも長期に渡る保存には至らず、保存展示施設などへ移されることもなく、その姿を消してしまいました。
いずれにしても、国鉄の交流電機は「技術開発の歴史」といっても過言ではないほど、1形式ごとに異なる電気的構造をもっていました。EF70形は交流電機としては、初めて本格的にシリコン整流器を搭載した量産機であり、交流電機でもっとも成功したED75形が装備した磁気増幅器もなく、数少ない高圧タップ切換制御を用いた電機として、後年に量産される交流電機に様々な影響を与えたことは間違いないでしょう。その意味で、EF70形は運用史こそ波乱に満ち、そして薄幸な歴史を紡ぎましたが、技術的な意味では大きな功績を残したのではないでしょうか。
本来、活躍を期待された北陸の地ではないものの、遠く西に離れた九州の地で、こうした注目を集めるジョイフルトレインの先頭に立ったり、あるいはヘッドマークを誇らしげに掲げて寝台特急の先頭に立って、夜の闇の中を、彗星の如く走り抜けたその姿は、輝きを放っていたともいえるでしょう。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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*1:読者様から誤りをご指摘いただきました。正しくは「交直流機」です。お詫びして訂正させていただきます。