30年前、1995年の嵯峨野線113.115系の借り入れ車を振り返ってみたい。
4月3日より本線の増発に即応するために向日町運転所から嵯峨野線用のC編成6本が網干電車区に貸し出された。既に電連装備を終えた1パンタ編成で、C01.02.04.05.06.12編成である。
その6本の代替として、同数の113.115系が集められた。嵯峨野線では110km/h運転は行わないので、いずれも非対応編成である。
既存のC編成はこの時点では電連、自動解結装置の取り付けは完了しておらず、これら借り入れ編成は共通で使用された。
まずは同所のC19編成から。
このC19編成は前年より草津線で単独の運用で使用されていたが、分割併合を行う嵯峨野線に動員された。前年10月に湘南色化されており、モハ113.112のWAU102と湘南色の組み合わせは唯一であり注目の編成であった。
向日町車であることから長く嵯峨野線で使用され、既存C編成の電連使用後は後述のC22編成と併結8連でラッシュ時に固定スジで限定運用されていた。
続いて目立つ存在だった赤帯車。
これら赤帯車2本は4月~9月頃までの活躍であった。その後はTc'は800番台化され福知山運転所に転出、モハとTc車の6両は湘南色化され岡山電車区に貸し出された。
続いて瀬戸内色のC22編成。

↑こちらは広島運転所からの借り入れ車で瀬戸内色115系のC22編成である。園部寄りクハ115はモハ114からの改造車651で、個性的な車両が嵯峨野線に入線した。WAU101冷房改造車でもある。馬堀~亀岡間。1995年5月。
一般乗客から最も注目されたのがこのC22編成のクハ115-651である。瀬戸内色でもあり、車内がバケットシートであったのが珍しがられた。
乗務員からも高速走行時には蛇行が激しいと指摘された。元々モハだったからだろうか?吹田工場に入場し整備されたようだ。
借り入れ車では最も長く活躍し、末期は先述のC19編成との併結8連で使用された。
C23編成は寄せ集めた感じ。

↑こちらは湘南色の115系C23編成である。モハは網干車のモハ115-108.モハ114-94である。両端クハが岡山電車区の非冷房車で園部寄りは元クハ111のクハ115-601であった。嵯峨嵐山付近。1995年4月。
C23編成は電化開業以来の非冷房クハである。クハ115-601はグロベン車でその当時を彷彿させるが、115系であり前面塗り分けラインが異なる。このスタイルでは一ヶ月間だけであった。
このC23編成とC22編成は嵯峨野線入線前の2~3月は網干電車区にあって、姫路~上郡間普通などで使用されていた。C23編成のモハのみ網干電車区所属となっている。
クハが冷房車に差し替えられたC23改編成。
クハ115-601→クハ111-470
クハ115-162→クハ111-825
に差し替えられた。クハ115は岡山電車区に返却され601はその後も長く活躍している。
クハ111-470はもと赤帯の奈良車、825は福知山車である。
赤帯車とほぼ同じ頃に嵯峨野線での活躍を終えるのであるが、470は828となり福知山色化、福知山運転所に転出するのであるが、湘南色化された825は福知山に戻った後どうなったのだろう?
岡山のエースA1編成もC24編成に。
少し遅れて4月10日から嵯峨野線に加わった岡山電車区のA1編成である。
地元岡山では非冷房のB編成に任せて嵯峨野線の応援に入った。岡山では本線にもA編成3本を貸し出している。
103系マスカット色5本が投入されて、115系B編成を置き換えたのであるが、予備として残されていた。それがこの非常時に大きな働きをしたことになる。
C19編成の草津線代走に入った117系C25編成。
震災復興輸送にはラッシュ時の臨時新快速が大きな役割を果たした。
しかし、ラッシュ時に急遽大量の221系を活用した増発は本来は不可能なのである。
それを可能にしたのは113系と115系の汎用性を生かした臨機応変の活躍であった。また、やや余剰気味で運用に余裕があった117系の存在も大きかったのである。
国鉄の標準設計は危機管理においても効果を発揮したのである。
*参考
「JR電車編成表」各号