赤帯113系の晩年

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     ↑京都で発車を待つ奈良電車区の113系。奈良線普通での運用で1994年3月に運用を離脱、赤帯車は消滅の予定であったが、そうはならなかった。

赤帯113系の晩年は波乱の展開となった。青帯113系もそうであったが。
赤帯113系といえば全盛期は奈良電車区で、6連での奈良~大阪環状線直通快速がその代表的な活躍舞台で、阪和線快速にも青帯新快速と区別して活躍していた。当時の所属は鳳電車区だったか?
桜井、和歌山線五条電化では4連も登場、その後は奈良線でも使用された。
221系大和路快速の登場により置き換えが進み、残った4連車も冷房化が推進された。その結果、4連×9本が残存↑していたが、山陰本線園部以北電化用ワンマン対応車の改造にからんで1994年3月に運用離脱した。これによって赤帯113系は消滅する予定だったのである。

赤帯113系といえば前面の幌は装備していなかった。これも青帯113系と同様である。ヘッドマークの取り付けの影響かもしれないが。
4連車も同様であったが、1992年11月に8連で「ひまわり号」に充当された。その直後からTc'車が前面幌を装備したのである。↑これでずいぶん精悍な印象になった。

    ↑運用離脱後は試運転で京都や天王寺に姿を見せることも。クハ111-432号。京都車と同じ向きになっている。京都。1994年。

その後は試運転に使用されたほか、向日町に留置され改造待ちの編成も見受けられた。
改造は赤帯113系のモハを宮原車に挿入、抜かれた新製冷房車ユニットに赤帯クハ111の前頭部を接合するという手法のようであった。

しかし、赤帯のままで6連に組成され宮原電車区に貸し出されている車両を1994年年末ごろに目撃した。103系の事故編成の代替予備のようであった。
クハ111-268
モハ113.112-161
モハ113.112-170
クハ111-435
の6連で大阪~新三田間普通に使用された。

     ↑↓引き続き震災迂回対応で大阪~新三田間普通に使用される同編成。1995年2月。


これらの動きに関係するかもしれないが、改造計画に変更が生じたようだ。
9本全てではなく、福知山運転所800番台クモハ2連の3本を活用することにより、6本の改造に変更されたようだ。
モハユニットは7本供出されており、このうちの捻出された5323ユニットは網干電車区で震災輸送の増強に活用された。

赤帯車で残存したのは、
クハ111-139.268.435.432.470
モハ113.112-161.170
の9両であった。クハ111が一両廃車となり、これは鷹取に留置されていた。

宮原貸し出しの赤帯6両は不通区間が復旧されるまでの3月までは福知山線で使用された。
1995年4月1日に復旧。
その土日の二日間で復興輸送の準備が行われたのである。
4月3日、月曜日からのラッシュ時姫路~大阪間臨時新快速を中心にした増発である。
その臨時新快速には117系も活用されたが、やはり221系が相当数必要であった。快速運用から221系を回し、その快速には113系、115系借り入れ車などをフルに動員しその穴を埋めたのである。
その貸し出しの区所となった岡山電車区では予備となっていた115系B編成非冷房車を岡山地区でフルに活用、冷房車のA編成を本線と嵯峨野線に貸し出しをした。
向日町運転所からも嵯峨野線用の高速対応の113系C編成が網干電車区に貸し出された。その穴埋めには奈良区からの借り入れとなる赤帯113系をはじめ113系、115系がかき集められた。
その土日には向日町運転所にその代替となる赤帯113系が4連×2本に組み換えられスタンバイしていた。


    ↑↓C20編成に組成されたクハ111-268.モハ113.112-170.クハ111-435。嵯峨嵐山~保津峡。1995年5月。



    ↑↑C21編成のクハ111-139.モハ113.112-161.クハ111-432。嵯峨嵐山~保津峡。1995年5月。


そして、さっそくC編成の一員として嵯峨野線で活躍を開始した。
広島→網干から貸し出された瀬戸内色C22編成、岡山115系A1編成のC24編成、岡山→網干からの115系C23編成、草津線用のC19編成も嵯峨野線に動員された。
この時点では向日町所定のC編成の電気連結器化は完了しておらず、それぞれが併結8連を組成した。
4月の時点ではクハ111-470は戦列には入っていなかったが、冷房を使用する5月からこちらは湘南色となってC23編成に組み入れられた。

    ↑↓5月からC23編成は組み換えられた。クハ115が162.601と非冷房であったので、これを冷房車であるクハ111-825.470に変更した。モハは115系でモハ115-108.モハ114-94である。嵯峨嵐山~保津峡。1995年5月。


このC23改編成、113系と115系の混成であり、冷房装置もAU75、WAU102、WAU202とこの時期を象徴する編成形態となった。
JR西日本を語る上では1995年4月から9月までが山場であったように思う。
8月に223系1000番台が急遽網干電車区に新製投入され、一部113系が返却されてくるようになった。
それと入れ替わるように赤帯113系は嵯峨野線を去り、その塗色は消滅した。
しかし、それはあくまで赤帯塗色であって、車両そのものは転々としながら震災復興輸送の縁の下の力持ちとして、その後も活躍を続けたのである。

*参考
「JR電車編成表」各号