昨日のエントリでご紹介いたしました、昭和44年5月10日の国鉄線運賃改訂で発売された暫定的な金額式が、矢印式、相互式、地図式の着駅表記の券に戻ってから暫くした昭和47年頃から、金額式の国鉄線連絡乗車券が現れます。
昭和48年2月に上本郷駅で発行されました、「上本郷から (松戸)→国鉄線30円区間」の券です。
暫定的な金額式ではゴシック体だった発駅が明朝体となり、国鉄線との接続駅は括弧で括られ、国鉄区間の運賃の数字が大きく印刷されるようになりました。
裏面です。
接続駅からの国鉄区間の運賃の印刷が無くなっただけでなく、表裏面ともに発行箇所の記載が無くなり、裏面は券番と循環番号だけの印刷と寂しくなってしまいました。
ここで、2025年4月11日のエントリ「新京成電鉄の乗車券類~11 国鉄線連絡乗車券 矢印式」でご紹介いたしました、みのり台駅発行の 「 みのり台から 金町←[松戸]→馬橋」の矢印式の連絡乗車券の再掲です。
国鉄線の運賃区間は金額式の券と同じで、このエントリで「新松戸駅が開業した昭和48年4月1日の時点で金額式となっていなければ、馬橋が新松戸に変わった矢印式が登場していた可能性もありますが・・・ 」と申しましたが、新松戸駅の開業で右側の着駅を「馬橋」から「新松戸」に改めた新しい券を調製したとしても、最初にご紹介いたしました券のように、新松戸駅が開業した時点で既に金額式が登場しており、新松戸に対応した新しい券は、最初から金額式であった可能性が高く、武蔵野線と新松戸駅の開業した昭和48年4月1日から「東京近郊区間」の制度が開始され、新京成電鉄線と国鉄線の連絡運輸区域のうち、南浦和~大宮間の各駅については距離が1.6km短縮されておりますので、着駅が変わった区間は金額式となった可能性も考えられます。
金額式に戻りまして、幾つか券をご紹介いたしますが、裏面は券番と循環番号だけの印刷となりましたので、裏面の画像は省略させて戴きます。
昭和48年10月に初富駅で発行されました、「初富から (松戸)→国鉄線40円区間」の券です。
「初富」は、江戸時代に幕府の放牧地であった「小金牧」と「佐倉牧」を明治時代に開墾するにあたり、入植した順に「目出度い地名」を付けた際に、最初の入植地として「初富」と命名されています。新京成電鉄の「初富駅」は、当初は「鎌ヶ谷初富駅」として開業し、昭和30年4月1日に「初富駅」に駅名改称されています。
昭和49年4月に二和向台駅で発行されました、「二和向台から (松戸)→国鉄線60円区間」の券です。
「二和向台駅」の駅名に取り入れられた「二和」は、「初富」に続く2番目の入植地として「二和」と命名されました。
昭和48年10月に三咲駅で発行されました、「三咲から (松戸)→国鉄線80円区間」の券です。
「三咲」は「二和」に続く3番目の入植地として命名されました。
拙ブログの2025年4月12日のエントリ、「新京成電鉄の乗車券類~12 国鉄線連絡乗車券 地図式」でご紹介いたしました、 みのり台駅で発行されました「松戸から国鉄線80円区間」の地図式の連絡乗車券の再掲です。
国鉄線の運賃区間は三咲駅発行の金額式と同じで、この区間の乗車券は昭和48年10月の段階で三咲駅では既に金額式になっていた事になります。
続いて5番目の入植地として命名された「五香」に所在する五香駅で、昭和48年8月に発行されました「五香から (松戸)→国鉄線100円区間」の大人専用券と小児専用券です。
小児専用券の国鉄区間の運賃は大人運賃の記載のみとなっています。
余談ですが、「小金牧」と「佐倉牧」の入植順に命名された地名は、「初富」から始まって「二和」、「三咲」、「豊四季」、「五香」、「六実」、「七栄」、「八街」、「九美上」、「十倉」、「十余一」、「十余二」、「十余三」と続きますが、このうち新京成電鉄線では「初富」、「二和」、「三咲」、「五香」が駅名となっており、「豊四季」と「六実」は近隣の東武鉄道野田線の駅名となっています。
津田沼接続の国鉄線連絡乗車券です。
昭和47年8月に高根公団駅で発行されました、「高根公団から (津田沼)→国鉄線120円区間」の券です。
最初にご紹介いたしました、上本郷駅発行の金額式よりも半年以上も早い時期の発行ですが、考えられるのは、昭和47年7月15日に総武本線の錦糸町~馬喰町~東京間が開業して、錦糸町~東京間のキロ帯が0.6km短縮されたため、これにより東京以遠の着駅の一部が変わり、例えば「浜松町」は開業以前は30.4kmで140円区間であったのが、0.6km短縮によって29.8kmとなって120円区間に変わりましたので、開業の前後で着駅が変わっても発売できるように金額式としたのか?、着駅が変更となった津田沼接続の連絡乗車券を印刷する時点で、連絡乗車券の様式が金額式に変更となっていたのか?のどちらかと考えられますが、いずれにしましても、金額式の登場は松戸接続の券よりも津田沼接続の券の方が早かったのでは無いか?と思われます。
昭和49年4月に鎌ヶ谷大仏駅で発行されました、「鎌ヶ谷大仏から (津田沼)→国鉄線140円区間」の券です。
新京成電鉄が開業した時点で、既に東武鉄道野田線に「鎌ヶ谷駅」が存在していたためか、区別する意味で駅の近くの「鎌ヶ谷大仏」を駅名としたようですが、最初から京成電鉄線として開業していたら「京成鎌ヶ谷駅」となっていたかも知れません。
昭和48年8月に前原駅で発行されました、「前原から (津田沼)→国鉄線160円区間」の券です。
この時代の新京成電鉄の金額式の国鉄線連絡乗車券は、この「160円区間」よりも国鉄線運賃が高額となる券は見かけないのですが、この運賃は国鉄線35km~40km帯の運賃で、国鉄線41km以上は金額式とならなかったのかも知れません。