『安土桃山時代』の名で、かつて日本歴史の表舞台にあったのも遠い昔、近江の一角で静かにその歴史を伝える街・
滋賀県近江八幡市 安土町を今作で取上げます
織田信長が束の間の栄華を誇った安土城も今は幻、最寄りの安土駅は各駅停車しか停らない現状ですが、今の安土はどうなっているのか?チラッと訪ねました。早速スタートします
最寄駅はJR琵琶湖線・安土駅
2017年に橋上駅化されました。
駅舎(※北口側)には、安土城の想像図が描かれています
そして、駅前広場から駅を睨む像は・
ご存じ、日本の名将・そして安土に束の間の都を築いた、
織田信長像が。
この後、信長ゆかりの安土を探訪しますが、この信長にしても安土城にしても、有名な割には今だ解明されていない部分も多々あります。駅近くに県立の博物館があるので、謎にどれだけ迫れるのか?見学します
(※JR安土駅の現状については、後程一度戻ってくるのでその際に)
安土駅から北へ約2km、田んぼが広がる山すそに、煉瓦建の建物が集まる一角が。
その一つが、滋賀県立安土城考古博物館です
早速見学します
展示室は、常設/企画計3つあります。
そのうち、第1常設展示室の奥に映像室があり、入館すると館のかたから「まず映像室の予約」をとるよう勧められます(※同館HPで前もって予約も可)
今春リニューアルされたばかりという映像、立体感や迫力もありました。半ドラマ仕立てで、はるばるバチカンから来訪した宣教師が、信長直々の案内で安土城の内部を見ていくという内容でしたが、現時点で判っている限りの史実を採り入れた凝ったつくりで、面白かったです(※約15分)
この後、実際の安土城跡やセミナリヨ跡にも行きますが、戦国大名の代名詞のような存在であった信長、キリシタンではなかったものの西洋文明に興味を持ち、イエズス会との交流でも知られるその生涯を分かりやすい年表で概説。
第2常設展示室には安土城や信長生涯の概要のほか、安土城跡から出土した史料や文物も多数。
ここで、信長の生涯をごく簡単に^
織田信長(1534~1582)
尾張(※現愛知県愛西市か?)の武家に生まれ、早くから一城を宛がわれ、父・信秀と和解なった斎藤道三の娘と結婚。
父の死により家督を相続すると、次第に日本は戦国時代の混沌へと突入。そんな中、アノ"桶狭間の戦い"に挑む事に。
この後、徳川家康と盟を結び、尾張一国を掌握、次第に"天下取り"への途を進み始めます。
(※↑は、後程行く安土城郭資料館にある信長像)
各地の武将と巧賢に連携や和睦を結びつつ、時には戦も交えながら勢力を拡大。既に信長に従っていた豊臣秀吉も頭角を現し、姉川の戦い等で勝ち進み、室町幕府の事実上倒幕も成し遂げました。
1576年、信長は安土城の建設に着手。ここ安土の地に武都を築こうとしました。完成した豪勢な安土城に入った信長、朝廷からの信任も得、これで天下を取ったかという栄華も束の間、入城からわずか3年後、あまりにも有名な"本能寺の変"で明智光秀に討たれ、波乱に満ちた半世紀足らずの生涯を期せずして閉じます(※信長の人物像等は、この後訪ねる安土城郭資料館&安土城跡でも)
企画展示室では、信長以前の古代に遡る安土/近江の歴史についての考古的展示。
近江八幡市のお隣・野洲市は、銅鐸が多数出土した事でも有名。僕が中学校の頃は"祭祀のための置物だった"と習ったものですが、近年では"銅鐸は祭祀等で打ち鳴らしていた"という説が定説だそうです
今は静かな街となった安土の深い歴史が、じわっと迫ってくるような展示でした^
ちなみに安土は長年"蒲生郡安土町"でしたが、平成大合併では紆余曲折の末、近江八幡市と併合。しかし今も"安土は安土"とお考えになるご当地の人は多いとの事で、一時は日本歴史の表舞台に立った安土への誇りも感じます。
この博物館、もう一つ特徴があります。
↑のドアを開け、館の裏手へ出ると・
中庭があり、その周りを囲む建物は・
同館は安土城だけでなく、滋賀県全域から出土した考古史料を収蔵/保全/研究する施設となっていて(※県立なので)、ガラス越しに中庭の回廊から直接見る事が出来ます。この日も学芸員のかたが史物を研究しておられる様子が見られました。当別荘全国のこういった博物館を訪れていますが、常時バックヤードが見られるというのは珍しいです
そんな回廊に、↑彦根から出張のひこにゃんが!w
長浜から浅井長政も^
なんせ県立なので、滋賀総動員で安土を盛り上げます^
館をあとにします。
この後行く、↑安土城跡がある安土山も見えます
この安土城考古博物館の周囲は『安土文芸の郷』として、いろんな施設が集まる一角となっています。"風土記の丘"という名も付いています
今作では入ってませんが、スペインで1992年に開催されたセビリア万博で出品された安土城の大型模型がある"信長の館"や、多目的ホール"あづちマリエート"等の大型の建物が並ぶほか、のんびりできる広場等も
広い敷地内には、県内各地から移築してきた文化財建造物がいくつかあります。
↑は現高島市にあった『旧柳原学校』で、1876(明治9)年築。滋賀県最古の現存小学校校舎だそうです
↑は、安土町内にあった交番。1885(明治18)年築、1965年まで使われていました。木造ながら端部に石材をあしらい、東京の街中にあってもおかしくない位の重厚さを出しています。明治期の警察建築を伝える貴重な例との事
(※上の2棟はいずれも滋賀県指定文化財)
安土山の麓を、琵琶湖線新快速が気持ちよく通過していくのが文芸の郷から見えます(※逆に車窓からも、安土城考古博物館が見えます)
次は、もう一度安土駅へ戻り、駅前にある小さな資料館を見学します^
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駅前へ戻ってきました
前述の通り、2017年に橋上駅となった安土駅、従来からの琵琶湖側の駅前に加え、山側にも↑駅前広場が新設されました
安土駅は、両隣を新快速停車駅(※近江八幡駅/能登川駅)に挟まれ、残念ながら普通しか停まりません
配線は中線があって折返し可能で、JR転換初期位まではなぜか夕方だけ数本"安土止め"の快速が大阪方から設定されていました。余談ですが、学生の頃大阪駅で学校帰りに乗換する時「安土行で~す!」のアナウンスが聞こえると、"そろそろ夕方のラッシュか・"と思い、寄り道するか真っ直ぐ帰るか迷ったもんです
(※2025現在、早朝1本安土始発の大阪方面行あり、車両は野洲から回送で持ってくる)
みどりの窓口が設置されていた時期もありましたが、橋上駅完成と共に廃止。オペレーター遠隔対応付機『みどりの券売機プラス』に置き換わりました
そんな安土駅前にも、安土城を取り上げる小さな資料館があります。
『安土城郭資料館』、入ってみます
この館のメイン展示は・
安土城(※想像図)から精巧につくられた、1/20の模型
凄いと思ったのは、左右にパックリ割った形でつくられ、内部も細やかに再現されていた事
ご存じ、本能寺の変後に炎上し短命に終わった安土城。
安土城は、確たる図面が現存せず、本当はどんな姿だったのか現在では謎です。
先程の県立安土城博物館の映像ストーリーにもなっていましたが、信長がイエズス会宣教師に贈ったという絵図が、天守の特徴をよく描いてあったという説が伝わっています。しかし同図はバチカンへ無事届けられた後、行方不明となり、現在も見つかっていません
(※旧安土町から調査団がローマまで探しに行ったそうですが、発見できなかったそうです)
一方、国内の学者の間では、数少ない伝承や城跡に残る礎石等の痕跡から推測し、様々な説が発表されました。概ね5~6層、地下1層の大掛かりなものだったのでは?といわれます。
この館の模型は、有力説の一つである内藤昌氏の説によるもので、同氏説は天守中央部に大きな吹き抜けがあるのが特徴となっています。
天守から城下を見下ろす↑信長さんの人形も^
模型の裏手には休憩コーナーがあり、金色の屏風で囲まれていますが・
この屏風、なんと陶板製という凝ったもの
そして・
↑2Fへ昇る階段が2ヵ所に
各々の階段が"別の2F"(※小さなフロア)に繋がっていて、安土ゆかりの展示品があります
冒頭にも出しましたが、数ある信長の人物画の中で、顔が本人に一番近いとも言われる↑絵。概ね細面で眼は細長かったと言われますが、写真は勿論ない時代なので本当はどんな顔だったかはわかりません。
又、信長の性格や人物像についても色々と言われていますが、代表的なのが『泣かぬなら殺してしまえホトトギス』といわれる残虐性。尊大な物言いで戦の攻略に長け、戦の際やその前後にみせた残虐な行いは数々伝わっています。一方で自ら武芸に勤しみ、風流を愛で、潔癖な一面もあったとも。経済面や娯楽面を重視する傾向もあり、この安土城下に楽市楽座制を敷き、今で言う"経済特区"のような地域を設けて繁栄を期したほか、城下で相撲大会を開いたり、完成した安土城へ客人を招く事も好んだといわれます。
では、城郭資料館を出て・
信長が築いた束の間の城、安土城の夢の跡を見に行きます
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安土駅から能登川方向へ約1km余・
冒頭の安土城博物館とJR線路を挟んで琵琶湖側に、安土城跡はあります
城跡・安土山の入口に、↑ガイダンス施設『城なび館』があります。城跡概要の展示や小さな休憩室もあるんですが、休憩室を含めて有料で、同城跡で座って休憩できる所はここしかなく、これが有料なのはちょっとナンだかなぁと思います(※辛口評ですみません)
(※トイレは外付けなので無料、なお城跡内には無く、ここがラストトイレなので注意。駐車場は無料です)
いよいよこれから、安土城跡・安土山へ登ります
"大手道"と呼ばれる、麓から真っ直ぐ上がっていく坂道へ
安土山は、信長の菩提寺とされる『摠見寺』が現在も所有していて、入域は有料です(※2025現在=700円)
有料区域に入るといきなり、大手道をストレートに登っていく405段の石段が待ち受けます
この"405段"ですが、当別荘では過去作で各地で長大な石段登りをしてきているので「405段ならまぁまぁかな」と、僕は事前に高を括っていました。しかし実際登ってみて大違い、段数のわりにけっこうキツカったですw
原因として考えられるのが、入域していきなりストレートな形状で石段が始まるのと、段の間隔が微妙に人間工学的に優しくなくてw^、難攻不落さ(?)を感じました
そんな"心臓破りなストレート石段"の途中にあるのが、
途中で立ち止って、こういう所を見学しながら登るのも休憩になりますw
摠見寺の現在の本堂が斜面に(※臨済宗)
なお、本堂は後年改築されたものですが、創建時の仁王門や三重塔が現存しています(※後程、下山時に)
長いストレートな登りが続いた後・
中盤からは傾斜が少し緩くなり、所々に曲り角も現れてホッとしますw
信長はこの石段を築くにあたり、市中のいろんな場所から石材をかき集めたため、なんと↑石仏を使用して石段にしている所が数ヵ所あり、踏まないように案内板が設置されています。
天守がある頂上が近づくにつれ、少し平坦な場所も現れます
途中にあった『仏足石』
仏足石=お釈迦さんの足跡を表現して彫塑されたもので、同地に残るものは室町時代中期の作との事(※現地板による)
中世の仏足石が現存する数少ない貴重な例だそうで、市中から石垣の石材として集められてきたものが、昭和初期に登山道整備をした際に発見されたとの事です
天守跡近し!
天守跡の少し手前で現れた↑空地は、本丸の跡。
そして、もう一登りすると~
着きました!安土城天守跡です(※国特別史跡)
けっこう、礎石がしっかり残っている事に驚きます
しかし、前述の通り図面が一切現存しない事から構造等の真相は未だ謎のまま、歴史ロマン溢れる安土城です
安土城博物館/駅前の城郭資料館で前述してきましたが、日本初の高層天守だったといわれる安土城、最高層は六角形あるいは八角形だったとする説もあり、もし現存していれば国宝間違い無しの優雅な姿だった事でしょう。
信長はイベント好きの面もあり、京都で大規模な馬揃えを行った事でも有名ですが、安土城を夜間、多くの松明で照らすという催しをしたとも伝わり、これが"日本初の建物ライトアップイベント"だったともいわれます
天守の周囲では現在も、県によって発掘調査が行われており、安土城の謎への挑戦は今も続いています
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下山します
帰路は、途中から別の道を通るよう指定されます
登りの時の大手道から脇へ逸れるように下っていきます
↑平坦部が現れ、”本堂跡”の標柱が。元々の摠見寺はここにあったようです。
そして、その横には・↓
立派な仁王門が、創建時の姿を残します(※国重文)
天正年間(※16世紀末)の創建と伝わる摠見寺、この門は甲賀の寺から移築してきたものとの事。なので、門が造られたのはもっと古いかもしれません。
又、仁王門の隣には三重塔も現存します(※国重文)
しかし三重塔は傷みがすすんでいるようで、近づけなくなっていました。昨今は山林火災が多いので防火面も心配です
本堂跡からは↑湖が望めますが、これは琵琶湖ではありません。
近江八幡(安土)付近は琵琶湖に附属する内水面が多くあり、ここから見えるのは"西の湖"です(※ラストに行きます)
仁王門からさらに下ると、↑先程の秀吉邸跡へ出て、大手道と合流します
少々疲れましたがw、入山口まで戻ってきました
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信長が束の間の都を築き、楽市楽座で賑わった安土城下町の面影はもう今の安土にはありません。田園風景となった安土山の麓は僅かな痕跡を伝えるのみで、歴史の謎を秘めたまま、何も語ってはくれません
そんな安土山の近くには・
日本初の神学校といわれる、セミナリヨ跡があります。
信長と交流のあったイエズス会が開設しました。
現在は公園となっていますが、集落内の狭い道に入らないと行けないので観光客はあまり訪れません。
郊外にしてはピシッと整備された感じの公園ですが、特にセミナリヨを感じられるものはなく、解説板がその史実を伝えるのみです。
↑日々の学生スケジュールを書いた解説板があり、ラテン語学習の時間が何度もあるほか、朝は4時半起床~夜20時の就寝まで、けっこう濃密な日課だったようです。その上宿題も出ていたとの事で、なかなか厳しそう
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そんな安土を訪ねた一日でしたが、陽が傾いてきました
ラストに小型Wo号で、先程安土山から見えた、西の湖へ走ってみます
琵琶湖に近接した内水面、西の湖です
以前は、ここ近江八幡近辺にはもっと多くの内水面があったんですが、干拓等で農地転用したため減少しています。
それだけに、今に残される西の湖は貴重な存在で、自然を楽しむサイクリングロードも整備(※びわ湖よし笛ロード)
水鳥も多く飛来し、琵琶湖と共にラムサール条約にも指定されています
滋賀県っぽい美しい水辺の光景をのんびり眺めたところで、安土ブラ、お開きにしたいと思います^
なお、今作編集中に入った情報ですが、2025年4月、西の湖の湖岸で、安土城下町のものとみられる石垣が約17mに亘って発見されたとの事です。城下町の本格的な石垣が発見されたのは初だそうで、安土城の謎を解明する一助になればと期待されています
☆近江八幡近辺過去作リンク↓
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