磐越西線の黄金時代 会津線 前篇 | スプーンの気まぐれ日記

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ご訪問の皆様、おはこんです。

週一の更新ペースで進めております、磐越西線の黄金時代。

昭和43年10月改正の貨物を含む時刻表と機関車運用図表を参考に一部考察を交えて記しています。

 

今回は会津線(川口・只見側と田島・滝ノ原側)を午前と午後に分けて機関車と気動車の運用を見てみたいと思います。新しい発見がありました。

現在のJR只見線は昭和43年の時点では会津線と称してました。これは只見~大白川が開業・全通

して全体が只見線と改称されるまで続きます。この時点で田島側の路線は旅客列車は全て気動車列車になっており、C11は貨物列車のみの牽引でした。只見側には旅客3往復、貨物2往復のSL列車が走っていました。

ただし只見まで行くのは貨物列車のみです。

運用図表を見ると気動車は1輛または2輛組で運用が組まれていたことが解ります。例えば始発の421Dの只見行きはキハ2輛+キハユニ1輛といった組み合わせでしょうか。

 

 

さてSL乙組51運用の下り貨物461レを見ていきたいと思います。6時33分に若松を出発し、西若松で前日から続く乙組59運用の上り普通列車422レと、会津本郷にて2412D「急行いなわしろ1号」と交換、そのあと会津高田まで走り、およそ1時間半停車します。おそらく上り本線に到着

したものと思われます。会津高田は上り本線(2番ホーム)を挟んで北側に貨物用の側線がありました。当時この駅の若松方の場内信号機は一柱二腕(本線及び副本専用)。

 

 

そして只見方の出発信号機は本線用と副本線用(上り本線の下り使用)の二本が立っていました。

 

 

 

ここでSL乙組58運用の下り混423レを先に通し、前日から続く乙組53運用の上り普通列車424レと交換(461レは下り本線に転線か?)、新鶴、会津坂下(上り426D、季節列車6414Dと交換)に停車して只見を目指します。

58運用の混423レは日によって乙組61運用のC11が次位に付き、重連による牽引がありました。

この61運用は会津川口から会津横田に向かい(臨8461レ)、鉱山から産出された黒鉱などを貨車に積んで川口に戻るのです(臨8462レ)。その後下り貨物461レが着くとお昼になりました。

 

続いて田島・滝ノ原方面です。

すでに旅客列車は全て気動車化されており、C11が牽く貨物が約2往復というダイヤですが、午後に面白い運用を見つけました。気動車は1輛毎に運用がある様ですね。

若松SL乙組52運用の下り貨物361レは若松を5時33分に出発して会津滝ノ原まで。乙組60運用の363レは会津田島まで向かいます。途中上三寄~湯野上には桑原駅を挟んで25‰の下り・上り勾配があり、磐越西線の広田~更科信号場、磐梯熱海~沼上信号場の様な峠越えとなってC11も本気を出して走って行きました。なんとこの区間、午後は補機運用のありました。363レが田島到着の頃、こちらの会津線もお昼を迎えます。

会津線の田島側と川口側はそれぞれ独立した運用に考えられますが、気動車64+82運用による下り321Dで滝ノ原、折り返し上り326Dで若松に戻ると、只見行き下り425Dの運用に入り、只見往復(上り434D)を務めて若松に帰るのですが、なんとまだ続きがあるのです(笑)。

 

次週は最終章、会津線の後篇をお送り致します。

最後までお読みくださいましてありがとうございます。