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国鉄の置き土産~新会社へ遺産として残した最後の国鉄形~ 北海道と四国、異なる地で走り続けるステンレス製気動車・キハ54形【7】

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《前回からのつづき》

 

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 1986年から1987年、すなわち国鉄の最末期に、キハ54形は0番台12両と500番台29両、合計で41両が製造されました。JR北海道JR四国国鉄から継承した気動車の数からすると、かなりの小所帯(キハ40系:JR北海道157両、JR四国53両 キハ20系JR北海道103両 キハ58系:JR四国131両)だったといえます。

 新製されたキハ54形は、0番台が松山運転所に、500番台は旭川運転所、苗穂機関区、函館運転所、釧路運転区にそれぞれ配置されました。

 四国に配置された0番台は、当初の計画通りに予算本線と土讃本線を中心に運用され、高出力エンジンを2基搭載した性能を活かし、勾配の厳しい法華津峠四国山地越えにその能力を発揮しました。それとともに、これら隘路を抱える区間は輸送量も少ないため、1両編成で運用できることも重宝されました。それまでは、勾配区間を1両編成で運用できる2エンジン車はあまりなく、キハ20系ではキハ52形が、キハ45系はキハ53形がありましたが、四国に配置されていたのは1987年の時点でキハ52形がたったの3両しかないという状態でした。キハ58系やキハ65形といった2エンジン車もありましたが、これらはどれもが片運転台式のため、最小でも2両編成を組まなければならず、輸送量が極端に少ない区間では運用コストが高く経済的とはいえませんでした。こうしたことから、1両編成で運用ができる2エンジン車のキハ54形は、四国局にとって待望の新型車両といえたでしょう。

 その後、分割民営化で全車が計画通りにJR四国に継承され、引き続き松山所配置にされて予讃線土讃線で運用されます。

 しかし、1990年になるとキハ54形にも時代の流れによる変化が訪れます。

 四国にとってかねてから待ち望まれていた瀬戸大橋が完成し、ここを通る鉄道路線が開通します。それまでは、岡山県にある宇野駅から香川県高松駅までの間を、鉄道連絡船である宇高航路によって結ばれていました。しかし、本州と四国を往来するためには、必ずのこの宇高航路の連絡船に乗り換えなければならないことや、船舶による連絡のため所要時間がかかってしまうこと、さらに気象条件、特に濃霧が発生しやすくたびたび欠航や遅延が発生するなど、輸送上のネックとなっていました。特にこのブログでも何度か話題に取り上げてきたように、1955年に100人以上の犠牲者(ほとんどが小学生児童と中学生生徒)を出した紫雲丸事故が起き、それ以来、船舶によらない本四間の連絡輸送は地元の悲願だったともいえます。

 

本四備讃線、通称「瀬戸大橋線」が開業するまで、本州と四国の間は国鉄が運航する宇高連絡船が担っていた。しかし、宇高航路は濃霧が発生しやすく、しばしば運航を見合わせるため安定性、定時性に問題があった。また、1955年に起きた紫雲丸事故では、100名以上の児童生徒が犠牲になり、より安全で安定した交通機関が求められ、瀬戸大橋建設につながったといえる。宇高連絡船の車両渡船は、青函連絡船のものとは異なる形態だった。(©spaceaero2, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 

 その悲願ともいえた瀬戸大橋の開通によって、本州と四国は鉄道線路によってつながり、同時に宇野線予讃線の間に本四備讃線が開通、これらを総称して瀬戸大橋線として一体的な列車の運行が始められます。そして、ここで運行される列車は電車が充てられることになり、予讃線高松駅と伊予駅の間が直流電化されることになったのです。

 本四備讃線が開通するまで、四国はすべて非電化のままでした。いわば気動車王国ともいえる状態でしたが、予讃線の一部電化によって四国ではじめて電車や電気機関車による列車の運行が開始されます。このことによって、キハ54形が新製配置されて以来、ねぐらとしてきた松山運転所にも電車が続々と配置されてきました。そのため、キハ54形は玉突きのように高知運転所へと配置転換されてしまいました。

 ところが、キハ54形が高知所へ配転後、その後任となったキハ32形が性能不足による問題を起こしてしまいました。キハ32形はキハ54形と同じ時期に国鉄が新会社のために製造した気動車で、エンジンは1基のみ搭載した車両でした。製造コストを極力抑えるため、赤字ローカル線を転換させた三セク線用に開発された気動車をもとにした車両で、平坦区間ではさほど問題を起こしませんでした。しかし、キハ54形が担っていたのは法華津峠四国山地といった勾配の厳しい区間で、エンジンを1基のみ搭載したキハ32形では、登坂時に空転を頻発させるなど性能不足を露呈してしまい、度々ダイヤを乱すようになってしまいました。

 そのため、2003年からは高知所配置のまま、再び予讃線の運用にも充てられるようになり、2006年に1500形が高知所に配置になると、ここでも玉突きのように配置転換となり、16年ぶりに古巣である松山所に配置されました。

 以来、予讃線予土線内子線のローカル輸送に徹し、新製以来、すでに39年が経とうとしていますが、軽量ステンレス車体と高性能エンジンを2基搭載していることもあって、JR四国の戦力として今も走り続けています。

 JR四国で活躍するキハ54形は牽引車として抜擢されました。これは、エンジンを2基搭載していることで性能に余裕があることや、1両単位で運用できることが大きな理由と考えられます。

 

悲願だった瀬戸大橋の完成は、本四備讃線の開通にもつながった。これによって、日本列島は沖縄県島嶼部を除いて、すべて鉄道がつながることになった。そして、本四備讃線の開業は、それまで気動車王国だった四国の鉄道にも大きな変化をもたらし、電化によって電車や電気機関車が走るようになった。(©Spaceaero2, CC BY-SA 3.0, via Wikipedia Commons)

 

 JR四国トロッコ列車は、無蓋車であるトラ45000形を改造したトロッコ車両と、制御車として新製されたキクハ32形があり、前者は「しまんトロッコ」として前面黄色のラッピングが施され異彩を放っています。このデザインは、JR九州で多くの車両デザインなどを手がけたことで著名なインダストリアル・デザイナーの水戸岡鋭治氏によるもので、貫通扉には「ST」のデザイン文字が入れられるなど、水戸岡氏の特徴的なデザインを見ることができます。

 また、四国にゆかりのあるやなせたかし氏が描いた、小さな子どもたちに人気の「アンパンマン」をデザインした「アンパンマンロッコ」にもキハ54形が使われていました。相方となるキクハ32形には、車体全面にアンパンマンのキャラクターが描かれていましたが、キハ54形は前面の貫通扉にアンパンマンのステッカーを貼り付けた程度でした。

 このように、0番台はJR四国に継承されてからも、勾配線区に対応できる強力な車両として重宝されてきた一方で、新製以来、特に改造工事を受けることもなく、車体の帯色などが変わった程度で、ほぼ原型を保ち続けているといえます。

 

《次回へつづく》

 

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