
とうとうイーダは、そっと小さいベッドからぬけ出て、静かにドアのところへ行って、部屋の中をのぞきました。まあ!イーダの見たのは、なんという面白い光景だったでしょう!
その部屋には、寝室ランプは一つもありませんでした。それなのに、たいへん明るくて、まるで昼間のようでした。お月様が窓からさし込んで、ゆかのまんなかまで照らしていました。ヒヤシンスとチューリップとが残らず、ゆかの上に二列にならんでいました。窓には、もう、花は一つもなくて、からっぽの植木鉢ばかりが立っていました。ゆかの上では、花がみんなそろって、それはそれは可愛らしく、ぐるぐるお互いのまわりをまわりながら踊っていました。そして、長い鎖の形になって、ひらりとまわりながら、長い緑の葉と葉をつなぎ合わせて、みごとな輪をつくりました。ピアノにむかっているのは、大きな黄いろいユリの花でした。それはたしかに、小さいイーダが、この夏見たユリの花に違いありません。なぜなら、あのとき学生さんが言った言
葉が頭に浮かんで来たからです。 「おやおや! あのユリの花はリーネさんにそっくりじゃないか!」その時は、学生さんは皆に笑われましたが、いま見ますと、この黄いろい長い花はほんとうに、あのお嬢さんに似ているように思われました。
――「小さいイーダの花」(大畑末吉訳)
「そっくり」といえば、安部公房の「人間そっくり」みたいな高級なものから、下のようなものまである。まさにポスト新幹線とポスト人間を同時に実現したといへよう。アンデルセンは、あいかわらず、物体が人間になるところでとまってしまうが、われわれの下品な世界は違うのだ。
まるで0系「鉄道ホビートレイン」完成 JR四国
「新幹線大爆破」という映画があるが、こんなかわいいのを田んぼのあぜ道みたいな線路上で爆破してなんか意味あるのであろうか、田んぼの稲が危ないだろ。結局、アンデルセンが正しい。アンデルセンの世界は、花が花であり続けているから美しいのであった。