2025年4月1日、東西の準大手私鉄が親会社の大手私鉄に吸収されます。
まず “東” は新京成電鉄が親会社である京成に吸収され「京成松戸線」となります。「新京成時代に乗っとこ」と今年、乗りに行きましたよね。
そういえばこないだ買った、私鉄や新交通システムも含まれた関東エリア限定の時刻表でも既に「京成松戸線」と明記されていて、この段階からも統合へのカウントダウンが始まっているのを実感します。車両の色とかどうするんでしょうね?
そして “西” は泉北高速鉄道です。
2014年から南海グループ(連結子会社)になっていましたが、4月から正式に南海電鉄になって南海泉北線となります。
数年前に “とある理由” で乗りはしなかったものの、中百舌鳥駅に車両を撮りに行きましたが、以前からその存在は知っていました。ただ、何処を走っているのかは全く・・・。
泉北高速鉄道を建設するきっかけになったのが泉北ニュータウンなんですが、泉北ニュータウンは堺市と和泉市に跨がる泉北丘陵に大規模な住宅地を軸にした開発を大阪府が計画し、1965年から本格的に着手します。そして同年、泉北ニュータウンと大阪都心部へのアクセスとして鉄道線を建設することも決定し、大阪府都市開発が泉北高速鉄道を設立します。今でこそ、泉北高速鉄道は正式な社名になっていますが、開業当時の「泉北高速鉄道」というのは運営にあたる大阪府都市開発の鉄道事業部門の部署名みたいな扱いで、言うなれば副社名、愛称みたいなものです。
同じ時期に大阪北部では千里ニュータウンの建設も進められており、千里と泉北は大阪における「二大ニュータウン」と言えるのではないでしょうか?
多摩ニュータウンは? それは大阪じゃない。
泉北ニュータウンへのアクセスは当初、国鉄、大阪市交通局(いずれも当時)、南海電鉄、近鉄にも打診しておりましたが、いずれも輸送能力としては限界ギリギリの情勢で、その中でも比較的余裕があった南海に打診することを決めました。しかし南海は重大事故が頻発しており(※)、重い負債を抱えるのと同時に投資の優先順位の兼ね合いから新線建設は断念せざるを得ないことから、大阪府は自身が一丁嚙みする第三セクターの大阪府都市開発に経営させることにしました。
泉北ニュータウンへのアクセスを考えたのかどうかは知らんけど、大阪市交通局も御堂筋線が1987年に中百舌鳥まで延伸開業しています。
その泉北高速鉄道ですが、私が生まれる2ヶ月前の1969年9月に中百舌鳥-泉ヶ丘間で工事が着工され、1年半後の1971年4月に開業しました。
新線建設を断念したとはいえ、車両の製造(監修?)や駅員、乗務員の派遣など、業務そのものは南海に委託する形を採っていましたし、実際に開業当初から南海高野線との相互直通運転を実施しています。別会社ではあるけど、南海色が濃かったのは事実だったりします。
路線は順次延伸されていき、中百舌鳥-和泉中央間が全通したのは1995年4月になります。
現在ではラッシュ時を中心に10両編成の列車が走るようになり、2017年からは専用車両による特急列車の運行も始まりましたが、ただ・・その特急、泉北線内はほぼほぼ各駅停車で、南海高野線に入ってから特急としての本領を発揮するのはどうかと。
1988年に第一種鉄道事業者としての認可が下り、これをきっかけに乗務員や駅係員も自社の社員が担当するようになります(最終的に全業務を直営化したのは1993年)。
2008年頃から大阪府都市開発の株式を売却する動きは見え始め、大阪府や地元自治体の間でも大きな問題になりましたが、泉北高速鉄道株は南海が取得することになり、2014年に泉北高速鉄道が正式社名になり、南海色が濃かったけど、ここで正式に南海グループになります。
さて画像ですが、泉北高速鉄道の記念樹とも言うべき初代車両、100系です。
南海車両に似ていると思う方も少なくないと思いますが、それは当たりです。
南海の6100系に準じた仕様で、OEMといっても過言ではありません。大阪市交通局30系と北大阪急行電鉄2000形、東京メトロ05系(4次車以降)と東葉高速鉄道2000系との関係に等しいですね。
両車の違いは南海6100系がオールステンレスであるのに対し、泉北100系はセミステンレス(スキンステンレス)であること、南海6100系は丸みを帯びた前面形状であるのに対し、泉北100系はご覧のように角張っている点、前照灯枠も南海6100系にはあるけど、泉北100系にはありません。そして一番大きな差異点は泉北100系は貫通扉を青く塗っていること。
下回りも違いが見られ、南海6100系がディスクブレーキ丸出しのパイオニアⅢを履いているのに対し、泉北100系は至ってオーソドックスのミンデン台車(FS-379、FS-079)を履いていますし、パンタグラフも下枠交差形(南海6100)と菱形(泉北100)で、そこでも違いがハッキリしています。準じてはいるけど、似て非なるというのは一目瞭然です。
後々冷房化されていますが、登場当初は非冷房でした。
泉北100系ですが、制御電動車が100形、付随車が500形、制御車が580形という形式を割り振っています。
1970年から1973年にかけて4両固定5本と2両固定5本、合計30両が製造されました。
1988年から更新工事が行われ、その際に “でこ” の部分に行く先表示器を取り付け、前照灯を前面窓下に移設しています。
1975年からはモデルチェンジ車ということで3000系が登場し、両数的にも3000系が泉北の主力になっていました。
1990年に登場した5000系が事実上の100系の後継車両で、5000系の最終増備車がロールアウトした1995年から廃車が始まり、7000系が登場すると、置き換えが一気に加速します。全廃は2000年。1両だけ泉ヶ丘駅近くの公園に聖地保存されています。
乗る機会は無いと思うけど、南海に吸収されても泉北ニュータウンへの “足” であることに変わりはありませんが、南海泉北線になっても「中もず」という、人を小馬鹿にしたような行く先表示は変わらないのでしょうか?(大阪メトロ御堂筋線は開き直ったかのように「なかもず」ですし・・。「百舌鳥=もず」って読めない?)
※:頻発した南海電車事故あれこれ
1966年3月、南海高野線大和川橋梁で線路に置かれた重さ20kgの石に乗り上げて脱線。乗客十数名が負傷。
1967年4月、南海本線男里川橋梁で橋梁端の踏切でエンストしたトラックに衝突、1,2両目が川に転落して5名が死亡、208名が重軽傷。
運転士が自身の子息を運転席に同乗させていたことと、事故後の初期対応をせずに子息共々乗務員室から脱出したことが判明。大きく報道された。
1967年7月、南海本線箱作駅で同駅を通過しようとした急行が赤信号を無視して別方向に開通していた分岐器を通過して貨物ホームに侵入し、同ホームから出発しようとしていた貨物列車と正面衝突。120名あまりが重軽傷。
1975年、南海江本(他数名)と阪神江夏(他数名)とのトレード・・・それは電車の事故じゃない。
【画像提供】
ウ様
【参考文献・引用】
ウィキペディア(大阪府都市開発、泉北高速鉄道、同100系電車、泉北ニュータウン、南海電鉄事故など)