ここは山手線の大崎駅。

ちょっと尻切れトンボになっていますが、写っている車両はクハ103-24だそうです。昭和50年8月25日撮影、今から半世紀前の話です。

全体像ではありませんが、クハの次位はモハ102-643だそうです。これを基に、令和の時代には考えられないドキュメントをお伝えします。

 

大崎駅ということは、東急車輌製造(現、総合車両製作所横浜事業所)で製造されたものだと思っていましたが、川崎重工で製造されたらしいです。同じ日にロールアウトしたのが

 

↑東京

クハ103-345

モハ103-486

モハ102-642

サハ103-386

モハ103-487

モハ102-643

クハ103-346

↓品川

 

これが落成試運転時の編成になりますが、昭和49年度第一次債務車両計画で製造された80両うちの7両で、昭和50年8月21日に落成しました。製造名目としては「大阪緩行線の新性能化」で、その名目通り、中間車に関しては全てスカイブルーに塗られて大阪鉄道管理局の明石電車区(大アカ)と高槻電車区(大タツ)に配備されることになります。

一方、先頭車は全て山手線向けのATCに対応した高運転台で、配備先は品川電車区(南シナ)になります。一般論からすれば、関西で試運転を行った後、クハだけ外して甲種輸送で東京に持ってくれば話は早いのですが、当時は自力回送が当たり前。交流専用とか、よほどの事情が無い限り、基本的には配備先まで自力で向かうことになります。モハ102-643が東京にいるということは、クハのお伴で一回、上京したのではないでしょうか? 

 

画像のクハ103-24は、103系量産の第一陣として昭和39年11月1日(製造予算は昭和39年度民有車両計画)に落成しました。配備先は池袋電車区(東イケ)ですが、昭和39年11月1日といえば、急行「伊豆」の運転開始日でもあり、私の両親の結婚記念日だったりします。

 

ここからは推測の域を脱しませんが、前述のように8月21日に落成した7両は、大阪周辺で試運転を行った後、クハの345と346のお伴で8月22日に大阪を発ち、翌日東京入り。そして大井工場か品川電車区かで新製のクハを切り離し、代わりに明石に転配されるクハ103-23と24をくっつけ、8月25日の深夜に再び西進することになります。翌日大阪に入り、吹田工場で整備を行った後、配置先である明石電車区に入ったのではないかと推測します。クハ103-23と24は書類上も8月26日付で明石電車区に転属となっていますので、辻褄は合います。ですから画像は大阪に向けて出発するところを捉えたのではないでしょうか?

 

どっちにしてもクハだけを自力回送させるわけにもいかず、逆に中間車が牽引車代わりになったといっても過言ではないわけですが、それこそ東急製だったらこんなにややこしいことをせずに済んだかもしれません。

東京に来たモハ103-486と487、モハ102-642と643、サハ103-386は試運転の合間に京浜東北線用の車両と邂逅したはず。「我々も大阪じゃなくてこっち(京浜東北線)で働きたかった」と思ったかもしれませんね。

 

当初、ATC関連の兼ね合いで山手線と京浜東北線のクハは全てATCに対応した車両と更改する時期とリンクしており、京浜東北線用車両は中間に封じ込められたり、青梅線や横浜線など、首都圏の通勤路線に転配されたケースが大半でしたが、山手線用の車両は大阪に持ってかれたケースが目立ち、履歴を見ても、山手線に投入されたクハの初期ロット車は最終的にはモリ、ヨト、アカ、タツ、オト(→ヒネ)といった関西に集結していますね。

京浜東北線と常磐線快速に集中配置されたクモハ103は最低3両という短編成が組めることから、ローカル線ながら通勤輸送が必須の路線にうってつけだったんですよね。

関西に転じた車両もいるにはいますけど、クモハ103の場合、どちらかと言えば、活躍場所は東日本がメインでした。

 

クハ103-23と24は明石に転配後、12月に冷房改造を受け、国鉄末期の昭和61年9月に日根野電車区(天ヒネ)に転属。日根野が終の棲家となり、クハ103-23は平成19年に、24はその翌年に廃車されています。転配後いつスカイブルーに塗り替えたのかは知らんけど、その12月の冷房改造の際に一緒に塗り替えたのではないでしょうか?

中間車グループも一蓮托生で、やはり昭和61年に日根野に転属、平成24年4月現在では現役車になっていますけど、さすがに今は廃車されていると思います。サハ103-386は電動車グループとは異なり、転属日は同じでも転配先は淀川電車区(大ヨト)で、片町線で働くことになります。そして平成元年にサハ103-5011に改造されたのも束の間、平成2年にさらにサハ102-11に再改造されて日根野に転属、終の棲家は森ノ宮電車区(大モリ)でした。廃車は平成19年。

なお、日根野や淀川に転配されるまでこの7両は組み替えを行わず、ずっと一緒だったようです。

 

中間車と同じ日に落成しているクハ103-345と346は生き別れになりつつも首都圏で活躍を続け、平成16年に京葉線で再会(345は平成2年に、346は平成16年にそれぞれ京葉電車区に転属)、そのまま京葉線で天寿を全うしました。

 

1枚の「尻切れトンボ」画像でも、こんなに歴史が紐解ける典型例です。103系の歴史はそれだけ深いという裏返しになります。

 

 

【画像提供】

フ様

【参考文献・引用】

鉄道ファンNo.541 (交友社 刊)

キャンブックス「103系物語」 (JTBパブリッシング社 刊)

復刻・増補 国鉄電車編成表1985年版 (交通新聞社 刊)