江ノ電300形 陣鐘山と鎌倉幕府滅亡

先日、
新田義貞の鎌倉攻めに
対抗しきれなくなった
北条高時鎌倉幕府第14代執権)が
自刃した鎌倉幕府終焉の地、
東勝寺跡に行って来ました。

で、鎌倉幕府
最後の戦いの記事を書きたくなり
極楽寺の霊仙山に向かいます。


私が立つ霊仙山は、
大仏貞直を将とする北条軍が
山全体を防御陣地にしていました。

新田義貞が霊仙山に対峙する
陣鐘山から敵陣の様子を窺うと
霊山や極楽寺坂など
この辺りの山地一帯は
幕府軍により木戸を構えて盾を並べ
強固な陣が敷かれている。

(ちなみに、当時の極楽寺切通しは、
今より勾配がきつくて切通しの高さは
現在の成就院の山門の位置でした。)

霊仙山の海側は海岸の砂浜の幅が狭く
北条軍は、波打ち際まで
逆茂木(さかもぎ)をめぐらしています。
沖には多数の船を浮かべて
新田軍が海岸つたいに進攻しようものなら
矢を射掛けようと待ち構えました。

そのような隙のない北条軍の防御線を
新田義貞は、どのようにして打ち破ったのか

太平記
新田義貞鎌倉中に攻め入る事」の条では、
稲村ガ崎にて馬を降り、甲を脱いで
海上の方を伏せ拝み竜神に向かって祈る

「仰ぎ願はくは、内海外海の竜神八部、
臣が忠義に鑑みて汐を万里の外に退け・・・」

そして黄金の太刀を抜き取って
海中に投げるとその夜、汐が沖のほうまで退き
二万余騎一気に駆け抜け
霊山の岬を廻って前浜(由比ガ浜)に突入できた

このような
不思議な現象が起きた物語になっているのは
よく知られているところ

実際には・・・

21日、新田義貞は、
陣を敷く後の世に陣鐘山と名付けられた山から
北条軍の堅固な陣構えを見て
中央突破である極楽寺坂からの侵入を諦めます。

そこで義貞がとった行動とは・・・?

まず、本陣のある
正福寺(稲村ガ崎5丁目付近)の小さな鐘を
北条軍が布陣する
霊山と相対するこの写真の山
陣鐘山に担ぎ上げます。

そしてその鐘を
総攻撃の合図のように打ち鳴らしました。

でも実際に攻撃を仕掛けたのは、一部の兵力。

極楽寺切り通しを突破するぞと
北条軍に思わせておいて
実は、潮が引いたタイミングで稲村ガ崎を廻って
鎌倉に侵攻する目論見。
 
北条軍の目を引き付けて
5月21日の深夜2時頃、干潮時間が迫ると
義貞達一行は、岬を目指したのでした。

前浜(由比ヶ浜)に雪崩れ込んだ新田軍、
長谷の稲瀬川より由比ガ浜の家々に
火を放ち鎌倉市内は火災の煙で覆われます。

幕府防衛軍と激しい攻防戦が繰り広げられ
極楽寺坂を守っていた大仏貞直も討ち死に

由比ガ浜にある鎌倉簡易裁判所用地や
マンション建設用地で
刀創・刺創・打撲創が散見する
大量の白骨が出土したが
それはこの時の戦の時の兵のもの

その後、化粧坂の守りまで破られ
扇ガ谷方面が火の海になると聞くと
御所(現 宝戒寺)に居た北条高時は、
北条得宗家の氏寺、東勝寺に移り
北条得宗家、分流の名越流北条や金沢流北条
常盤流北条などの北条一族と
御内人(北条得宗家に仕える被官・家人)
安達などの外戚・外様御家人一族
そしてそれぞれの家臣、
一族郎党以下870余人と共に自害

鎌倉幕府は、滅びます。