「平成・令和時代における京阪電車のフラッグシップ 8000系展」を訪れる〜その22 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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みなさんこんにちは。前回からの続きです。



「くずはモール(大阪府枚方市)」内の京阪電車鉄道博物館「SANZEN-HIROBA(さんぜんひろば)」で現在、開催されている「平成・令和時代における京阪電車のフラッグシップ 8000系展」を訪問した際の様子をお送りしています。

今年(2025年)で75年を迎える京阪特急。本題の「8000系」について、ここ「SANZEN-HIROBA」の常設展示や、手元の参考文献などにも触れながら項を進めています。



現在、「二階建てダブルデッカー」や「プレミアムカー」を連結するなど、特別料金不要の列車としては、国内随一の居住性の高さを誇る「8000系」。まさに「フラッグシップ」としての活躍を続けています。枚方市にて。



1989(平成元)年10月のデビューは、大正時代からの長年にわたり温められていた、京阪電車と洛北・比叡山方面とのアクセスを大幅に向上させることになる「鴨東線(おうとうせん・三条〜出町柳間 2.3km)」開業に合わせたものでした。パネル展示より。



では、今回も手元の京阪電車広報誌「くらしの中の京阪」1989年10月号より拾ってみます。


開業初日は、始発からではなく正午からの開業、という記事。京阪電車では珍しい例です。

解説にあるようにこの当時、京都からの下りは「特急・急行・普通」が15分間隔で運行。「三条駅(同東山区)」からはさらに「宇治線」直通が加わり、日中は16本もの高頻度でした。


下り特急は「七条を出ますと、大阪の京橋まで停まりません」とアナウンスされていた時代。全列車が京阪間をノンストップで走破していました。

ちなみに、左上に書かれている「A1203A」とはこの列車の列車番号。
「A=特急」「12=始発駅を12時台に発車」
「03=下り列車、始発駅を奇数で01・03と数えて2本目に発車する列車」
「A=行き先駅、淀屋橋」と読みます。


それに次ぐ「急行」は、沿線主要駅にこまめに停車するものでした。

特急が停まらない途中駅からの利用が双方向に多く、大概混み合っていた記憶がありますが、ついぞ快走する特急が、丹波橋や中書島、樟葉や枚方市に停車するなど、この時には想像もつきませんでした。


昼間は基本的に上下列車とも「樟葉(大阪府枚方市)」で特急を待避していたのが特徴でした。

こちらは「G1002Z」列車。
「G=全線通しで運行される急行」
「10=始発駅を12時台に発車」
「04=上り列車、始発駅を偶数で00・02と数えて2本目に発車する列車」
「Z=行き先駅、出町柳」と読みます。


これに加え、樟葉や枚方市からは「準急」が大阪方面へ折り返すという形態が、1980(昭和55)年から平成の半ばまでの長きにわたり続けられました。個人的には、これがいちばん印象に残っているダイヤです。運転士が使用していた「スタフ(運転時刻表)」。ブログ主所蔵。


本題に戻りまして、開業に際しては絵巻物風の豪華な記念乗車券が発売。



「8000系」をはじめとして、終着の「出町柳駅(同左京区)」で接続するようになった「叡山電車」をあしらった、記念テレホンカード。

「テレカ」というのが懐かしいものです。


そして、叡山電車との連絡乗車券や、従来から発売されていた、周遊型乗車券「クルット」にも、これに合わせた新しい種類が登場。



出町柳で叡山電車乗り換えを活かしたさまざまな企画乗車券が発売されるようになりました。


「鴨東線」自体を鑑みますと、2年前の1987(昭和62)年5月に地下化されたばかりの「三条駅」から「京阪本線」をそのまま北に2駅延ばしたのものです。



しかし、観光名所が多くありながら、これまでアクセスしにくかった洛北や比叡山方面へ路線を延ばす「叡山電車」と接続した、ということがいちばんのセールスポイントなのでした。


淀屋橋や京橋といった、大阪市内中心部から出町柳での乗り換えだけで自然豊かな洛北や比叡山方面へアクセス出来るようになり、観光客が大幅に増加。叡山電車の沿線も開発が進み、一気に近代化が図られます。


その、あたらしく拓かれたルートの主役としての印象が大変強い、デビュー当時の「8000系」なのでした。


次回に続きます。

今日はこんなところです。