20.東海道本線二川と新所原の駅取材
ホテルの部屋で支度をしながらテレビを見ていたら、
東海道新幹線の運転見合わせが報道されていた。
一抹の不安を覚えながらも、
たぶん夕方までには再開するだろうと思っていた。
宿泊していたホテルルートイン豊橋駅前チェックアウトし、
まずは旅行用のバッグを駅のコインロッカーに入れた。
午前中は浜松まで駅取材し、午後から飯田線の取材をする。
帰りは18:51豊橋発の「ひかり660号」で帰京する予定なので、
カメラバッグだけ持って取材を開始する。
朝の段階ではそれが最善だと思っていたのだが、
のちのちこの判断を後悔することになる。
豊橋駅の有人改札で、青春18きっぷの2回(人)に、
「(海)豊橋駅 7.22 入鋏済M」と押印して貰った。
ホームは思った以上に混んでいた。
この時は通勤、通学の時間帯だからと思っていたが、
それだけ出なく、上りは新大阪から浜松まで、
東海道新幹線が運転見合わせ中なので、
在来線で浜松まで行き、そこから新幹線で帰京する客も多かった。
乗り込んだ列車は373系が充当されていた。
373系は特急「ふじかわ」や「伊那路」に充当されている車両だが、
一部で普通列車にも使用されているようだ。
JR東日本の185系と同じ発想なのだろう。
ただ、滅茶苦茶混んでいて着席は出来ず、
デッキにすし詰め状態で二川まで行くことになった。
JR二川駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
北口側の単式ホームは1番線に付番、上り方面が使用、
南口側の島式ホームは2番線、3番線に付番され、下り方面が使用する。
通常は2番線が使用され、3番線はほとんど使用されない。
画像は南口で、橋上駅舎化されている。
東海道本線の大府から浜松までの区間は、
現在の武豊線の武豊から大府までの区間を含め、
1888年9月1日に開業したが、
この時は二川に駅は設置されなかった。
この付近は江戸時代の東海道の二川宿に当たり、
地元からの請願が行われ、官設鉄道開通から8年後の、
1896年4月7日に開業した。
二川は東海道五十三次で二川宿として古来より栄えていた場所である。
08:12で隣の新所原に行く。
JR新所原駅は単式1面1線と島式1面2線の、
計2面3線の地上ホームを有する東海道本線の駅である。
北口側の単式ホームは1番線に付番、上り方面が使用、
南口側の島式ホームは2番線、3番線に付番され、下り方面が使用する。
通常は2番線が使用され、3番線はほとんど使用されない。
画像は南口で、橋上駅舎化されている。
東海道本線の大府から浜松までの区間は、
現在の武豊線の武豊から大府までの区間を含め、
1888年9月1日に開業したが、
新所原に駅が出来たのは1936年12月1日で、
二俣線(現・天竜浜名湖線)の分岐の信号が同年2月13日に設置され、
二俣西線が新所原から三ヶ日までと同時に駅に昇格した。
二俣線は1940年6月1日に全通したが、
1984年6月22日に第2次廃止対象特定地方交通線として廃止が承認され、
国鉄分割民営化直前の1987年3月15日、
二俣線は廃止され、第三セクターの天竜浜名湖鉄道に移管された。
国鉄時代は単式1面1線と島式2面4線の計3面5線構造だったが、
旧1番線が天竜浜名湖鉄道線となり、2番線は廃止され、現在の構造となった。
新所原に再入場し、次の鷲津行きの列車を待っている時、
天竜浜名湖鉄道線の回送列車が留置線に入ってきた。