みなさんこんにちは。今日の話題です。
「くずはモール(大阪府枚方市)」内の京阪電車鉄道博物館「SANZEN-HIROBA(さんぜんひろば)」で現在、開催されている「平成・令和時代における京阪電車のフラッグシップ 8000系展」を訪問した際の様子をお送りしていました。
今年(2025年)で、京阪特急の誕生から75年。本題の「8000系」について取り上げる前に、その歴史について、ここ「SANZEN-HIROBA」の常設展示や、手元の参考文献などにも触れながら項を進めています。
間が空きましたが、今日からはこのシリーズ再開してまいりたいと思います。出典①。
さて、昭和40年代後半から平成はじめまでの約20年にわたり、京阪電車のフラッグシップとして活躍した5代目京阪特急「3000系(初代)」の経緯について、ここまで述べていました。
ワイドな窓に、明るい車内。
豪華な内外装に乗客の人気は集中します。
京阪首脳陣はこれに手応えを感じ、特急車両を「3000系(初代)」から「8000系」に置き換える決断を下します。出典②。
次々と「8000系」がデビューする中で、昭和40年代から長らく活躍して来た「3000系(初代)」は数を減らし、ついに1編成7両(加えて予備車2両)のみとなってしまいます。
6代目「8000系」のデビューから4年後、1993(平成5)年夏のことでした。

ここからは、手元の「京阪時刻表1995」から。表紙は、同年にデビューした最新通勤型車両の「7200系」が飾ります。
正面窓は従来より大幅に拡大、視界が抜群に良くなりました。また、パワーウインドウ、通話型非常通報装置などを、京阪としてははじめて採用した車両でした。もう30年前の号です。

ページをめくって行きますと、当時の現有車両がずらり。現役の車両も多々ありますが、懐かしい気持ちになります。特急、通勤型ともに旧塗装だからでしょうか。

当時、「3000系(初代)」はたった1編成(7両1編成+予備車2両)しか残っていませんでした。

「8000系」がデビューした後、特徴ある先頭車両の幌は取り外され、顔つきがそれまでとは別人(別車?)のように変わったことは、当時、中高生だったわたしにとっては大変印象に残っていたことでした。
「8000系」の増備も進む中、これで、このまま経年廃車になるのか、と思っていました。

続いて、2年後に発行された「1997年号」。
今度は「9000系」が主役を張っています。
このダイヤ改正では平日の朝ラッシュ時間帯に下り(大阪方面)特急の枚方市停車が開始されることになります。
中書島には、これに先んじて1993(平成5)年1月から停車がはじまっていました。出典③。

これに合わせてデビューした「9000系」は混雑を見越して「3扉・セミクロスシート(窓に背を向けるロングシート・窓に直角に座るクロスシートの両方を備える)」装備に。
ラッシュ輸送にも、それ以外の時間帯は特急から各駅停車としても対応可能な、ハイブリッドな特徴でデビューした車両でした。出典②。
広義では、この「9000系」も「京阪特急」の一員になりましょうか。
この枚方市への特急追加停車は、府内から大阪市内方向に競合する「JR学研都市線(片町線)」が大阪市内中心部へ直通する「JR東西線」が同年3月に開業、相互乗り入れすることによる対策も大でした。新福島(大阪市福島区)にて。
なお、「9000系」は現在、すべて通勤型仕様に改造されています。京橋にて。

さて、現有車両のページをめくるのですが…

「3000系(初代)」が、なんと別人のように生まれ変わっているのがわかります。
陳腐化した車内も「8000系」同様に装換。
新車同様の大幅なリニューアルが施され、今後も活躍し続けさせることがわかり、ほっとしたのでした。

しかしそれよりなにより驚くべきことは、このリニューアルと同時に、中間車両のうちの1両を「2階建てダブルデッカー」にした、ということ。1995(平成7)年12月のデビューでした。
他とはまったく構造の異なる「2階建て」という車体を「新造」ではなく「改造」。それも、改造は車両メーカーではなく、自社工場で行ったという、これまでに例のない試みなのでした。
次回に続きます。
今日はこんなところです。
(出典①「街をつなぐ、こころを結ぶ 90th Anniversary」京阪電気鉄道株式会社編・刊 2000年10月発行)
(出典②「京阪百年のあゆみ」京阪電気鉄道株式会社編・刊 2011年3月発行)
(出典③ 京阪電車広報誌「くらしの中の京阪」VOL.253 1997年3月号)
(出典④ 京阪電車広報誌「くらしの中の京阪」VOL.252 1997年2月号)