父親という名の男(1) | 京阪大津線の復興研究所

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以前の記事「藤子不二雄作品のツッコミどころ」の反響が思いのほか大きかったので、私と父親の確執について3回に分け、詳しくお話ししたいと思います。鉄道とも、ものまねとも無関係ですが、よろしければしばらくお付き合いください。興味のない方は、読み飛ばして頂いて構いません。

あの記事で私は「幼少時に無菌室状態で育てられた」と述べましたが、それを端的に示すエピソードがあります。ある夜、私がふと「クソッ」とつぶやいた瞬間、父親は「どこでそんな言葉を覚えた!」と、鬼の形相で詰め寄ってきたのです。その直前まで、母親は弟を身ごもっており、私は何か月か親戚の家に預けられていたのですが、実家に戻った途端、この事件が起こりました。

たちまち私は、裸足のまま玄関の土間まで追いやられました。そして「思い出すまで上がってくるな!」と言い放たれたのです。一縷の望みを抱き、近くのカーテンにくるまって身を隠すと、ただちに見破られて蹴飛ばされました。

こういう時、間に入ってかばうことは一切しないのが私の母親です。自活できないのが原因だと感じた私は、それから長きに渡って「専業主婦は人間のクズ」との偏見にとらわれてしまうことになります。

「クソッ」というのは、私が従兄の言葉をまねたものですが、もちろん父親はそのことを察しつつ私を問い詰めたのです。しかし、私は幼いながらも、この男がそれに気付いていることに気付いていました。

私がそれでも頑なに口を割らなかったのは、理由があります。ここで白状すれば、良くても「二度とあの家に行くな」と言われるだろうし、悪ければ従兄にまで害が及ぶかもしれないと思ったのです。

年端もいかない子にここまで考えさせるとは、これが虐待でなくて何でしょうか。もっとひどい虐待は世の中にいくらでもありますが、だからといってこの男の罪が消えることにはなりません。

ちなみに、この従兄の父、私にとっての伯父は私と血がつながっていませんが、暴力に訴えることなど皆無でした。それどころか、母の姉である伯母ともども、従兄姉に対する以上に優しく接してくれたのです。私の父親はそういうことを異常なほど鋭く察知する男なので、「あの家」に対する妬みも手伝って、この凶行に及んだのでしょう。まさに下衆の極みです。

話を当日に戻します。私が「わすれた」とこぼすと、「だったら最初からそう言え」と告げられて許されました。とりあえず気が済んだのでしょう。

最初からそう言っても断じて聞き入れなかっただろうに、どの口からそんな言葉が出るのかと、寒気がするほど怒りを感じたのを覚えています。団地の窓から見えるゴミ収集車に父親が積み込まれていくのを、何度夢に見たことか。恐怖に打ち勝てる人間の感情はたった一つ、怒りだけです。

よって、私も決して無抵抗だったわけではありません。あまりの理不尽さに納得できず、反論したこともあります。ところが、この男は平然と「お前はそんなこと言うけど、お父さんの張り手一発で吹っ飛ぶんやぞ」と言い放ったのです。呆気にとられて、返す言葉を失いました。

主張の是非より暴力が勝るなど、文明社会において親が子に教えることではありません。父親は私と同じく早生まれで、少年時代は体格に恵まれなかったようですが、「自分よりデカいガキ大将にも向かっていった」そうです。しかし、それが嘘であることぐらい、容易に想像がつきます。嘘だからこそ、そのコンプレックスを息子にぶつけてきたのでしょう。

またある時は、半狂乱でわめく私に向かって、父親は「座れ」「とにかく座れ」と言いました。ここでクイズです。私が座った直後に何が起こったか、あなたは分かりますか?

なんと、いつものように張り手が飛んできたのです。暴力はもちろん論外ですが、座らなかったからシバいたのなら、一応の筋は通ります。しかし、少なくとも「座れ」という命令には従った相手をシバくとは、明らかに論理が破綻しています。あまりの展開に、私は痛みすら感じませんでした。

虐待はまだまだ続きますが、その詳細は次回に譲ります。

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