◆地味な進捗報告
今回の報告は、水路の造形(1)、水路の造形(2)のつづきです。
製作中の水路は赤で囲んだ部分を流れます。
前回の報告(水路の造形(2))から長い時間がかかりましたが、左岸側石積みのジェルメデイウムの塗布が終わりました。
さらに、右岸側の石積みの切出しと石の描画、ジェルメデイウムの塗布も終了しています。
この水路、約110cmと結構な長さですが、いくらなんでも工作に時間がかかり過ぎですね。
なお、右岸、左岸とは、川の下流に向かっての方向を指す呼び方です。
下の2枚が、上の写真に示した拡大写真①及び②です。
ジェルメディウムは乾燥すると透明になるので分かりづらい思いますが、石積みに立体感が出たのがお分かりいただけるでしょうか?
いよいよ来週は石積みの塗装に進みます。右岸の石積も、左岸と同様、現段階で水路に固定したかったのですが、塗装がやりづらくなりそうだったので我慢しました。
これは、当鉄道のトラフガーダー橋の翼壁です。
石の形状は異なりますが、石積みの塗装後のイメージはこんな感じです。
右岸の石積みをマスキングテープで水路に仮止めし、水路を設置予定箇所に置いてみました。
おお! 長さはピッタリです。
ちょっと拡大してみました。
道路上から水路を眺めたイメージです。まだまだ前途は長いですが、私の脳裏に、ようやく川正線完成後の姿が見えてきました。
◆下流の鉄橋に関する構想
この水路は、下流に向かて道路をくぐり、さらに線路をくぐります。
その流路については、下写真の黒マジックの描線のように考えていました。
この黒い線、線路の部分に二通りの描画があって迷いが見られますね。
まあ、これはどっちでも良いと思っていたのですが、今日になって、青の太線で示した流路の案が浮上してきました。
計画では、ここに小さなデッキガーダーを架けるつもりでした。
ところが、イメージ図を作図してみたところ、ちょっと物足りなくなってしまったのです。
実物にも、これくらい小さなガーダー橋は存在していますし、これはこれで面白いと思うのですが、イメージ図を眺めるうちに「もう少し、橋らしい橋を架けたいな。」という思いがしてきました。
そこで考えたのが、青の流路です。こんな風に流れを曲げることで、橋梁の径間を伸ばすことが可能になります。
そして、ここに架けたい ”橋らしい橋” とは、トラス橋です。
もちろん、大掛かりなトラス橋は架けられないので、小さなポニートラスを架けたら面白そうだと考えています。それも普通のポニートラスじゃなくて、”親柱” を備えたポニートラスはどうでしょうか?
親柱とは、道路橋ではよく目にする、橋の手前に鎮座した柱のことで、橋の名称などが書かれていることが多いようです。
私のイメージに近いのは、豊田市の山あいにある、ポニートラスの「両国橋」です。
親柱のある鉄道橋は、非常に珍しいと思います。
私は、明治大正期の鉄道写真で見たことがあるのですが、どのくらい珍しい物なのでしょうか?
ちょっと気になったので、文献を当たってみたところ、「戦前につくられた東京の橋梁の意匠について」という論文にヒットしました。この中に親柱に言及している部分があるので引用してみます。
「道路橋の代表を日本橋とすると、明治末から大正はじめにかけて建設された中央停車場(東京駅)と、東京市街線の高架が日本橋に匹敵する鉄道構造物として考えられる。
東京~神田間の高架橋の中に外壕橋(大正7年)が架かっている。この橋梁の名前を知らなくとも、この橋梁には車中からあるいは歩行者から見て大変巨大な親柱が設けられているのに気付いた人はいることと思う。
鉄道橋に親柱とは、現在の構造物がすべてマニュアル化されている時代には考えにくいが、日本橋と相対的に考えれば中央停車場へのランドマークと考えられないことはない。(現在は拡幅のため4本の親柱のうち2本が撤去された上、周囲に高層ビル と高架道路が建っているため、ランドマークとはなってい ない。)」
う~ん、帝都の中央停車場へのランドマークくらいじゃないと、鉄道橋の親柱は設けられないようですね。
川正線の小さな橋梁に建てるのは、ちょっとおこがましいかな?
でも、川正だって、古の川正藩の藩庁所在地ですからね!
何はともあれ、橋梁の工事施工まではまだ時間があるので、水路の流路や橋梁のあり方については、もう少し悩んでみることにします。
本日も、ご訪問ありがとうございました。
参考文献:高浦 秀明 「戦前につくられた東京の橋梁の意匠について」日本土木史研究発表会論文集 7 (0), 163-170, 1987