転轍器

古き良き時代の鉄道情景

南国情緒

 錦江湾にたそがれが迫る頃、汽笛一声川内行が鹿児島を後にする。帰宅客を乗せたバスや自動車が遮断機の下りた踏切で待っている。忘れられない懐かしい鉄道情景が切りとられて感動する。 226レ 鹿児島 S44(1969)/4/2

 西鹿児島から城山トンネルをぬけて来た列車は国分・吉松行1542レと思われる。隼人で日豊本線肥薩線へ分割されるこの列車は隼人まではC57牽引のはずであるが、良く見ると機関車はC5510〔吉〕で1輛めはオロ11がつながっている。もしかしたら西鹿児島と鹿児島の間で多く設定されていた回送列車だったのかもしれない。 鹿児島 S44(1969)/4/2

 鹿児島発出水行224レの先頭に立つD5149〔出〕と後続の地域間急行貨物列車を牽くD51176〔熊〕が並んでいるのを跨線橋から眺める。後方はヤードと機関区風景が広がっているのが見える。大動脈の起点模様として印象に残る。 鹿児島 S44(1969)/4/2

 C6131〔鹿〕+C5772〔鹿〕重連が従えているのは臨時急行大阪行“しろやま51号”で1輛めのスハフは「しろやま」のサボと「9」の号車札が入っていた。後方は「出水行」サボを掲げたオハニ61345〔鹿カコ〕が見える。手前左の客車は後続の品川行“桜島”かもしれない。 8210レ 西鹿児島 S44(1969)/4/2

 西鹿児島を出ると広木信号場を経て上伊集院まで厳しい上り勾配が待っている。

 鹿児島本線日豊本線共に起点終点駅は鹿児島駅であったが、その後西鹿児島駅が市の中心部となり、運転上の区分駅となったようだ。鹿児島は機関区と客貨車区、貨物取扱い設備が、西鹿児島は鹿児島運転所、鹿児島工場が置かれていた。両駅間の入換と回送はさまざまな機関車で行われていたと思われる。C56157〔鹿〕が仕立てる急行編成の緩急車はナハフ119〔鹿カコ〕が組まれていた。 西鹿児島

 鹿児島本線の客車列車は下りは西鹿児島止り、上りは鹿児島始発の設定が多かったので西鹿児島と鹿児島の間は回送が多かった。C61で唯一の切取式除煙板取付機として有名であったC6113〔鹿〕が西鹿児島からの客車編成を据え付けて転線したところ。 鹿児島

 早朝博多を出たキハ80系特急“にちりん”は九州東側を縦走して南国の終着に辿り着く。食堂車組込みの7輛編成で運転されていた。 2011D 西鹿児島 S44(1969)/4/3

 西鹿児島発宮崎行504D“錦江2号”車窓から錦江湾に浮かぶ桜島を望む。

 薄暮霧島神宮で上り“錦江2号”は下り“富士”と交換する。“富士”は前日の夕刻に東京を発ち一昼夜かけて走り通していた。 7レ 霧島神宮 S44(1969)/4/3

 夜の帳が下りた都城4番線に佇んでいるのは都城吉都線肥薩線鹿児島本線経由門司行の夜行鈍行1122レであった。門司まで約11時間半の九州縦断の旅が始まろうとしている。 D51606〔吉〕 都城 S44(1969)/4/3

 ヨンサントオ以降、九州内の夜行鈍行列車は長崎本線佐世保線門司港佐世保・長崎間の1421レ-1422レ、日豊本線門司港西鹿児島間の521レ-522レ、そして門司港都城間の1121レ-1122レ(上りは門司止り)の3本が運転されていた。
 ヨンサントオ以前は門司港~鹿児島・都城間の121レ-122レ(都城編成は2121レ-2122レ)の鹿児島本線通しの夜行鈍行も健在であった。

 写真:小川秀三さん

 小川さんが記録された写真からまるで私が南国をさまよったような錯覚に陥り、鹿児島電化以前の鉄道模様を味わい堪能することができた。当時の時刻表には机上の旅行計画が書き込まれ、それが今になって実現したようで小川さんへ感謝申しあげます。