地味だったかもしれないが、堅実に走った四半世紀…209系1000番台、常磐緩行線時代の記録と記憶 | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。
その時限りも大事だけど、できる限り日常を大事に。

昨年9月6日。

この日を持って、ひっそり現役を引退した通勤電車の番台区分がいる。


中央快速線の209系1000番台である。


二階建てグリーン車導入に関連した予備車補充という電撃移籍はあったが、ダイヤ乱れさえなければ

東京〜高尾間の限定運用に終始して、およそ5年半というショートリリーフを無事に勤め上げた。

時には中央特快として高速で通過走行するなど、常磐緩行線・東京メトロ千代田線直通の頃とはまた

一味違った走りを存分に示し、満身創痍の体で運用を全うした。


運用離脱後、留置されていた豊田車両センターでは、時に編成をバラしての整備作業が。

そんな動きに、一部は妄想という名の転用予測をしたりしていたようだが…


遂に1月26日、トタ82編成が東大宮操に自力回送後、クモヤE493系に牽引されて長野へ。

そして昨夜、トタ81編成も東大宮操に自力回送後、またもクモヤE493系に牽引されて長野へ。

長野への回送は深夜となったため、出撃はせず。

これで、約25年、四半世紀に及ぶ活躍に終止符を打った…


はずである。


さて、2018年までの常磐緩行線・東京メトロ千代田線直通運転時代。

2編成のみの小世帯ではあったが、同じく希少車種であった207系900番台に比べると、まだ少しは

界隈で遭遇する機会は多かったように記憶している。

そのあたりは、南武線でも希少種だった209系0番台と同じだったかなあと。


実際、手元に残された記録には折々に209系1000番台の姿があった。

ただ、その存在故、結局最後までメインで記録に赴くことは無かったのである。

そしてそれは、中央快速線に電撃移籍してもさして変わることが無かったのであるが。


2010年12月2日、代々木上原にて

2010年といえば、中央快速線から201系が引退。

残るは京葉線となったところで、兄弟種である常磐緩行線の203系も次第に淘汰が加速。

それもあり、次なる記録対象にと動き始めた頃である。

実際この日も(たまたま偶然ではあったが)203系マト67編成の廃車回送を記録している。

しかし、これをさらに追うことはしていなかったのが当時の自分らしいが。

自分の当時のスペックからか、廃車回送の時刻を全く知り得ていなかったからである。

今ならば、中央線で山梨県まで追っかけ(先回り)するくらいの案件なのだが。



ということで、この頃の記録は203系がメインで、209系はたまたま来たオマケ、という感じである。


ちなみに、もちろんこの時は他に撮っている人なぞ誰もいなかった。

自分も、珍しいなとは思いながらも、さして深くも考えずにシャッターを切っていたはずである。

もしくは、小田急電鉄も含めて「来るもの拒まずで記録」を実践していたんだろうか?


詳細不明、北千住にて

同じ運用番号ながら、前の写真では綾瀬行きになっていたのに「取手行き」とは?

代々木上原から乗っていったのか、書く前にタイムスタンプなど確認し忘れ、詳細不明。


そして、2011年4月以降、その記録頻度は僅かながら増していく。

4月1日は、京王電鉄から京葉線に向かい、さらに常磐線を記録した時に。

さらに4日後。


2011年4月5日、金町にて

こうして振り返ってみると、結構乗ってもいたみたいである。


この日は京葉線201系の廃車回送を八王子まで追跡記録した後、都内に踵を返していたらしい。

その他詳細はあまり書き残していなかったが、短区間だったり、千代田線を走破したり…

今の横須賀・総武快速線でもそうだが、ある程度目当てを記録したら寝て移動する癖がついている。

その結果故かもしれないかなぁ…と、薄い記憶を辿っている。


2011年4月9日、代々木上原にて

さらに4日後、この日もフラフラ千代田線界隈へ。


当時は203系、それもトップナンバーのマト51編成やマト52編成をメインで出していたが…


なかなかどうして、当時しっかり記録していたじゃない


という。

掘り返してみて分かる、当時の自分のマメな取り組み。

その経験は、今にもしっかり活きている。


まぁ、ここ何年かでこのブログにはマメに記録を出せるようになったよね。

インターバルは2ヶ月半に達そうとしているが、これからもしっかり取り組まないと。


2011年5月9日、我孫子駅

さらに1ヶ月後、この日もかなり行き当たりばったりな鉄分補給行。

それも小山廻りという、なかなかヘビーな大廻り。

当時はこうして、明確な目的がない“乗り鉄ついで”という機会も多数あったらしい。

やっぱり203系を撮って、そして209系1000番台に乗るという。


…そして失意の夏は過ぎ…


2011年9月14日

203系の記録がラストスパートに差し掛かる中、やはり出会っていて。


そして、撮っている。


今にしてみたら、宝物の記録の数々。


203系ついでの割に、よく撮り逃さなかった。

その辺りの手抜かりなさは、当時32歳の自分、GJ!


だがその記録行も、終わる日が来る。


2011年9月26日

この日朝の運用を持って、正式に203系の運用が終了となった。


そんなラスト運行の後ろに、実は209系1000番台がいた。

途中での抑止にもめげず、走っていたのだった。


あの日から13年半余、満を持して初公開。

そしてこれが、現時点で確認できる常磐緩行線での209系1000番台の最後の記録であった。


…以来、常磐緩行線には209系1000番台はおろか、207系900番台の記録にすら赴いていない。

2006年の103系に始まり、何かと撮り鉄界隈では騒がしいイメージがある常磐線界隈。

415系1500番台はたまたま行った水戸線や勝田で別れたものの、なかなか触手が動かなかった。


…そんな中で、極めて異質な記録がただ1回。


2015年8月22日、東京総合車両センターにて

毎年恒例の、東京総合車両センター一般公開。

2015年の夏は、マト81編成が検査入場中。

これにより、検査途上の様々な場面が、センター内で間近に見ることができた。



特にクレーン昇降および“ノントラ”による移動実演には、モハ209-1002が抜擢された。


比較的地味な走りに徹していた209系1000番台の中では、貴重な晴れ姿だっただろうか?

 

そして常磐緩行線から引退、その後急転直下のトレードが実現。

そして折々に(そんな頻繁にではないけど)記録をし…

最後の豊田車両センターでの記録は今年1月15日の夕方。

そして、2月2日を迎えることに。

デビューから四半世紀。

少数派ながら、よく走り切ったと思う。

その奮闘に、改めて拍手を!