去る1月29日にJR発足以来の期間が国鉄の存続期間を超えた。国鉄は蒸気機関車が主力だった時代に発足し、動力近代化、新幹線開業などの施策を推し進めて我が国鉄道の大きな変革を成し遂げてきたので、かなりの長期間存在していたと思いがちだが、実際は38年間(13,817日)であった。後を継いだJRもいまや民営化後に入社した社員がほとんどで、まさに国鉄は遠くなりにけりである。歴史としての国鉄は知っていても、実際の社風や裏の事情に精通した者がいなくなり、それで大丈夫なのかと心配するのは、国鉄時代を知っている僕ら昭和世代だけなのだろうか。
中央快速線に[特別快速]という列車種別がある。今でも運転されているが、元々は新宿〜八王子間で京王帝都電鉄の特急に対抗するため、中野〜立川間は三鷹にしか停まらなかった。
小学生の頃(1970年前後)小金井市に住んでいた僕は、3年次の社会科の授業で『小金井市』をテーマとして学ぶ中で「特別快速はなぜ武蔵小金井に停まらないのですか」と先生に質問したことがあった。武蔵小金井には駅に待避線、国分寺方に電車区(西ムコ)があり、駅北口には西友と長崎屋があって結構栄えていたのだ。先生は、国鉄と三鷹の地元商店街との取決めで他の駅には停車できないと教えてくれた。真か否かは今に至るまでわからないが、僕はそれを信じている。その後時を経て武蔵野市に住むようになって、特別快速が吉祥寺を通過するのがなんとも腑に落ちなかった。これだけ吉祥寺が発展し、乗降者が多くなったというのに、昔の取決めを律儀に守っている国鉄という組織は、何があっても約束を守り抜くというより、融通が効かなすぎるなぁとなかば呆れていた。
↓本文で特別快速に言及したので探したところ、この1点が唯一の写真のようだ。(中央線東中野〜中野/1983.3.20)
↓上の写真だけではあまりにも寂しいので、中央線系統の通勤形をお目にかけたい。下の写真は同じ日に撮影した101系。先頭のクモハはパンタ部が低屋根なので800番台であることがわかる。この日はED16のさよなら運転があったので、このような写真が残った次第。
↓青梅線の桜の名所を行く103系。103系とはいえ、まだ冷房装置を搭載していない。(青梅線鳩ノ巣〜古里/1981.4.13)
↓川井駅至近のコンクリート橋を渡る101系。やはり101系の方が103系より旧国テイストが強い。前面窓のほんのちょっとした寸法の違いが印象を左右する。(青梅線/1982.3.31)
そういうわけであるから、国鉄が分割民営化されるときに、新聞広告にローカル線やブルートレインはなくなりませんと出たのを見て、すごく安心したことを覚えている。特別快速の取決めですら守っているのだから、きっと守ってくれるだろうと思った。しかし、現実にはその後(特定地方交通線はともかくそれ以外の)赤字ローカル線やブルートレインが次々に廃止された。考えてみれば、あの新聞広告は国鉄のクレジットではなく、自民党のクレジットだった。とはいえ、国鉄やJR各社にもそれを守る責任、少なくとも社会的責務があると思っていたので、裏切られた気がしたし、(詳細な大人の事情はわからないが)釈然としないなぁと長年思っていた。
↓1986年5月当時の新聞広告
それが、昨年12月に福田玄衆議院議員が提出した質問主意書に対する政府答弁を見て愕然とした。件の新聞広告がローカル線やブルートレインはなくなりませんと記していることに関し、政府は「日本国有鉄道の分割民営化の際に、自由民主党が掲載した御指摘の「意見広告」であって、特定の政党の活動に関するものであり、政府としてお答えする立場にない」と答弁しているではないか!! 「意見広告」とは恐れ入谷の鬼子母神である。要すれば、選挙公約とあまり違わないということである。信じた僕がバカだったし、40年近く経ったらなんでもありなんだと鼻白んだ。
株式上場を果たした会社にしてみれば、株主を念頭に置いて経営しなければならず、非効率な部門は合理化していこうと考えるのは当然である。
そういう意味では、これからはローカル線廃止だけでなくさまざまな面で民間企業としての効率経営が幅を利かせてくるだろう。国鉄時代に相当する期間中はずっと我慢して耐えてきたのだから、これからはその軛を逃れてやらせていただくというのが本音だと思う。先頃JR各社は待ってましたとばかりに民営化後初の運賃改定をアナウンスし、この4月から実施に移すのはその表れであると受け止めざるを得ない。機関車の廃車(運転免許の一元化)や列車本数の削減、諸業務の更なる外注もこれまで以上に進んでいくのだろう。わからないでもないが、これまたなんとなく釈然としない。
ともあれ、僕としては、これからも安全第一を最上位・最優先に位置付けてやってほしいと願うばかりである。「これからも」と書いたのは、武士ならぬファンとしての情けである。
↓休日に新宿から奥多摩まで運転されていた“おくたま”が桜満開の川井駅に入ってきた。今回画像をよく見たら、ヘッドマークに「特別快速」と書かれているではないか!(青梅線川井/1982.3.31)※再掲です。
↓上と同じ日、軍畑のあたりは梅も満開であった。(青梅線軍畑〜沢井)
↓数少ない201系の写真。もうじき引退と知って、早暁の青梅駅に駆けつけた。(青梅線青梅/2010.7.11)
↓上と同じ日に東中神〜中神間で撮影した。身を乗り出してカメラを構えたが、編成後部がちょん切れた。昔の感覚で4両だと思っていたが、今や10両のまま乗り入れるのであった。