私が日常生活の中で気になる日本語の誤用は「電車」だ。 「電車に乗ります」に対して「〇〇線は電車でなく気動車ですよ」と返答すると反応が冷ややかだ。
一般的に「電車」は鉄道あるいは列車の意味で誤用されてしまっている。これは仕方のない面もあり、都市部では鉄道はほぼ電車である。例えば東京都内には旅客用の気動車路線はなく、近郊でも千葉県の小湊鉄道・いすみ鉄道・JR久留里線、埼玉県のJR八高線の高麗川駅以北のみである。
日本の最初の鉄道が、一般的に言われている1872年の新橋~横浜間ではなく、その前に既に国内各地で走っていることは以前このブログで取り上げた。当然だが、これらは電車ではない。
それでは最初の電車がどこかというと、1895年に開業した京都電気鉄道の伏見線である。
京都電気鉄道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93
京都は明治維新以後、天皇や公家が東京に移り住み寂しさが漂うようになっていた。そのため、京都市民の中からこのまま街が衰退することを憂慮し、産業の振興を呼びかける声があがった。
それに伴い、琵琶湖疏水と呼ばれる水路工事、更にはそれを用いた日本初の水力発電などが実施された。路面電車の運転計画は、その水力発電によって供給される安価で潤沢な電力を基にして立てられるようになった。
なお路面電車は、1890年の第3回内国勧業博覧会のとき、会場となった上野公園において東京電燈が5月4日からアメリカ製の電車で試験運転を行い披露された。
琵琶湖疏水の工期途中の1889年に、工事主任技師の田辺朔郎と上下京連合区会議員の高木文平は、疏水の水力利用についての視察のためアメリカへ赴いた。帰国後2人は水力利用は発電を主とするのがよいとの報告を行い、それに基づき蹴上発電所の設置など疏水工事の計画修正がなされた。その渡米時に2人は水力発電とともに、電気鉄道を見ている。
蹴上発電所の運転が始まると、高木文平らは1892年に電気鉄道の敷設を府知事に出願し、その後1893年に内務省へ電気鉄道の敷設を出願した。そして1894年2月に電車敷設の事業を行うための事業者として京都電気鉄道が設立され、路線の建設が開始された。
翌1895年2月1日、初の路線として東洞院塩小路下ル-伏見下油掛間を開業させた (距離約6.4km)。
わかりいくいが、「東洞院塩小路下ル (七条停車場)」は現在の京都駅中央口 (北側) を出て京都タワーの東のところ、「伏見下油掛」は現在の京阪本線の伏見桃山駅と中書島駅のから500mほどのところで後に「京橋」と改称された。
ともに電気事業鉄道発祥地の碑が建っているのだが、七条停車場は東海道線踏切りの南側であり、この碑よりも50mほど南側に位置するようだ。(当時の京都駅の線路は現在よりも北側を通っていた)

ということで、この伏見線が日本で最初の電車となるが、新しい技術ゆえに以下のようないろいろな問題があったようだ。
運行開始当初、路線は全線単線で19箇所に交換所が設けられたが、閉塞の概念がなかったことから時計に沿って電車を走らせていた。しかし時計の精度が低くまた遅延も多発ぎみで、単線区間に両方向から来た電車が同時進入して立往生し、どちらが交換所まで戻るかで運転士・乗客による罵倒・取っ組み合いの喧嘩がよく起こった。更に曲線区間で見通しが悪い場合は、正面衝突まで引き起こした。また、道路の幅が狭く電車の開業後も道路を横断する人が絶えなかったことから、開業2か月後には轢死事故が発生した。
そのため電車の安全対策を迫られ、京都府によって電気鉄道取締規則が制定された。これに伴い、街角や曲線区間には昼間は旗、夜間は灯火によって単線区間に同時に2列車が進入しないよう監視する信号人を置き、また電車には運転士と車掌のほか、市街地などの危険な区間では電車の前を先行して走り(当時の最高速度は12.9km/hであり走っても先行が出来た)歩行者に安全を知らせる告知人 (前走り/さきばしり) を乗せた。告知人は子供が多く登用され、昼は赤旗を、夜は提灯を持って、街角や人の多い場所で電車を降り、先行して電車の通行を告知した。しかし、走行中の電車からの飛び乗り・飛び降りを強いられる上、夜間は全線先走りが義務づけられるなど重労働で、また告知人が電車に轢かれる事故が多発した。
運転開始当初、蹴上発電所の電力を使用していたが、この発電所はこびり付いた藻を取り除くため月2回 (1日・15日) 停電日があったほか、保守点検のため年に数日の送電停止が行われており、電車も運休していた。これを解消するため、1899年に東九条村 (京都市南区東九条東山王町) へ自社の火力発電所が設置され、運休もなくなった。
それでも1895年に京都で開催された内国勧業博覧会が活況で、その後京都市の人口が増加したこともあり、利用者は増えた。伏見線は1904年には勧進橋から稲荷への支線が開設され、京都市内から伏見稲荷大社への参拝客を輸送した。また同年には油掛から中書島まで延伸された。また京都電気鉄道は他にも順次路線を拡張した。
これを受けて他にも電気鉄道会社を設立する構想も上がったが、2代目京都市長・西郷菊次郎の方針を受けて今後の電気鉄道は市営で建設することとなり、また市が京都電気鉄道を買収することも決まった。
市営の路面電車は1912年6月から4路線7.7kmの運行が開始された。その後1918年7月1日付けで市による京都電気鉄道の買収により、軌道21.1km 車両136両が市に引き継がれた。
その後京都市電の路線は戦後に至るまで延長され、最盛期の1957年に76.8kmとなり、乗客も1963年に一日平均564,488人の利用があった。
しかし他の大都市同様に1960年代からの自動車の急速的な普及により路面電車は邪魔者扱いされ定時運行もできなくなり、乗客も減少し経営が難しくなった。また京都では地下鉄への期待もあったことから市電は順次廃止となり、最終的に1978年に全廃となった。
1970年 (営業終了の年) の伏見線の貴重な映像があるので見てみよう。
また1968~69年に稲荷支線を含む沿線各所で撮影された貴重な写真もある。 伏見駅付近での京阪電車との平面交差は是非見てみたかった。
市電のある風景・京都 (1)伏見線
https://www7b.biglobe.ne.jp/~railbus/0251Inari.html
https://www7b.biglobe.ne.jp/~railbus/0252Fushimi.html
向日葵写真館 伏見・稲荷線
http://geo.d51498.com/himawari_syashinkan/kyouto-husimi-inari-1970-3.html

現在の京都はバブル期に建設された市営地下鉄東西線の費用が膨らんで財政が苦しい状況にある。一方でオーバーツーリズムの問題も抱えており、路面電車の全廃の是非を問う声もあるようだ。
なるほど現在であれば宇都宮ライトレールのようなLRT (Light Rail Transit) や、バス専用路線 (BRT : Bus Rapid Transit) など、より良い選択肢があるようにも思うが、これを今嘆いてもしょうがないだろう。
常に人々は今の状況で将来に向けてよりよい方策を考えているのであり、未来から指摘してはいけない。