<イベント参加日:2024/9/22:20240922>
いつもJR東海のイベント参加日は、カメラの設定縦横比がヘンテコになっている
うたちゃんの貴重な鉄道体験、JR東海の偉い人に、将来JR東海の社員にならないかと(冗談でしょうけど)声をかけられ、普通の鉄道大好き少年は盛り上がるのに、(うたちゃん曰く)目指している分野が違うのでちょっと無理と返答、(パパ曰く)転勤が多いから止めた方が良いと、ぜんぜん喜ばない感じでした。(JR東海が動物園や水族館を作れば別の答えになったと思う、東海道新幹線沿線の私設動物園などが数を減らしているので、せめてそういう所にも送客して欲しい)
JR東海の偉い人?には、言わなかったのですが、私の養父(うたちゃんのおじいちゃん)は、新幹線の建設に国鉄職員として自営工事部隊として活躍したのが自慢でした。
<うたちゃんのおじいちゃんと東海道新幹線>(いつかはわからない)
・国鉄大宮工場で、鋳物や溶接関係の見習い
・国鉄千葉レールセンター勤務(おばあちゃんと出会い結婚)
千葉レールセンターは、東京局大宮工場の系統の職場であるのを忘れたのか、東京局管内に戻されるのは想定されていなかったよう(間違って家を千葉に建てるが、おじいちゃんは新築の家に3ヶ月しか住んでいないで、ほぼ単身赴任)
・東京南鉄道管理局管内の職場まわり(出世コースらしい)で転勤を繰り返す。
・熱海大改良の表彰状が引越で発見される(熱海保線区、東海道本線、伊東線分離)
・鴨宮保線区所属で、新幹線モデル線のロングレール関係工事を研修的にやっていたかも
・滋賀県に長期出張してロングレールを現場溶接して送り出したのが自慢(痴呆症がすすむ前に、色々伝えたかったことがあったらしく、晩年に聞いた話。おそらく近江鉄道の高宮付近の支線から搬入されたレールの溶接)
・新幹線開業後は、東京南鉄道管理局管内の職場まわりが再び始まる
・国府津、汐留貨物駅、鶴見線弁天橋、新鶴見(新川崎)でSM分離(戸塚駅の線路構造が画期的だと自慢していた)
・国鉄貨物縮小時代は、各保線区で線路撤収の仕事、汐留から築地への貨物支線の再整備をしたのにすぐ撤去で残念だったよう
(保線職場は、悪天候予想時の待機、地震発生時や事故対応で大変だったとのこと、ポケベルを常に持っていて、招集される時は鉄道は動かないのでタクシー移動、そのためにいつも高額の現金を持っていたため、錦糸町、銀座、中山、府中で散在していて、おばあちゃんによく怒られていた)
・新幹線建設の功労者に選抜され、フランスTGV視察と技術交流に行っていた。(養父にはTGVは欧州規格の狭くて小さな車両だから早く走れると教えられたが、今の私には、電力システムがATき電の開発が間に合わずBTき電で、とにかく電力系統の故障が多く、国家イベントのオリンピックや万博に合わせて開業したように思える。日本の新幹線はどう見ても、パンタグラフが多すぎた)
・管理職として組合対策や肩たたき人員整理で神経を消耗してしまい、横浜レールセンター勤務に(工程管理の事務系に)
・肩たたきを率先してやったのが精神的に影響したらしく、国鉄最後の日をまたがず国鉄退職(二階級特進で(東京駅長と同じ階級の)参与になったらしい。国鉄を辞めず管理職のままJR社員になった人は、各JR子会社の幹部になれたらしい)
・ちゃんと受け皿の下請け子会社に入れた、やっている仕事は、国鉄レールセンターの丸投げ仕事だったので同じだったよう。(国鉄職員の定員が減っただけで、関連会社が同じ事をやっていた)
・下請け子会社の資本エリア再編整理で、JR東海管轄の首都圏新幹線の保守作業(日本機械保線)に携わることに(線路閉鎖の資格者が国鉄退職者しかいなくて、重宝され毎晩夜間作業していたようだが、国鉄時代公務員的な採用で真面目な部下が多かったのに比べ、工事現場作業員のやんちゃさに手をこまねいていたよう)
・私の年齢頃では、子会社も退職して、仲間で各地に旅行ざんまいだったよう