JR根岸線  鍛冶ヶ谷からの富士山

この場所は、鍛冶ヶ谷と
日野南という名の町の境になります。
町名からもわかるように
鍛冶たちが住んでいた場所。

この写真の右側に位置する町は日野。
もともとは、火野といいました。

私が立つこの山の中腹を含め
この周辺には製鉄関連の炉が18ヶ所、
鉄精錬の炉が14ヶ所、製銅の炉が1ヶ所
砂鉄を掘り出した竪穴遺構、
鍛冶ヶ谷式の横穴古墳など
さまざまな製鉄関連の
古代遺跡が点在しています。

鍛冶ヶ谷の近く上郷深田地区でも
7世紀から9世紀前半にかけて
200年間操業されたと思われる
製鉄遺跡が発見されています。

そこには
大陸製法の須恵器もあることから
渡来系の鍛冶集団と思われています。

鎌倉時代になると
鎌倉にほど近いこの地は、
重要な兵站基地となり
一帯には、
刀鍛冶の集落が次々と生まれます。

氷取沢は、鎌倉時代には
「火取沢」と呼ばれていたことが、
鎌倉幕府の公的史書吾妻鏡』の
建暦3(1213)年の条に記録されています。

砂鉄から鉄を取り出すときに出る
不純物の「金くそ」
その「金」の字を持つ隣接する区「金沢」

ここは、
埼玉県の秩父から鎌倉入りした
畠山重忠が連れてきた鍛冶職人を
金沢区の釜利谷(かまりや)の谷戸
移り住まわせます。

彼らは鉄鉱石の産地で
武具生産の盛んな秩父の金沢村の出身で
自分たちの出身地「金沢」の名を
そのまま
地名に移したのだといわれています。