京急 中原の熊野神社

1192年、
頼朝が征夷大将軍になった年
頼朝は、治国安民を願って
鎌倉四家の熊野修験道の道場の一つ
山崎の泉蔵院の僧、
真諦智覚法印に祈祷を命じます。

頼朝の命を受けたものだから
智覚法印も必死。
当時、第一の霊場ともいえる
紀州熊野まで出向いています。

そして三所権現の御分霊を
樟(クス)の舟に乗せて
祈りをこめて流したところ
数日後に中原の海岸に流れ着き
この事が頼朝に伝わり
中原の地に神殿を建てるよう
智覚法印に命じたというのです。

これがこの撮影地の近く
横浜市磯子区中原4丁目にある
熊野三所権現を祀った
中原の熊野神社の縁起とされています。

落慶の日に頼朝は
梶原 景時を奉幣使として
派遣したといいます。

安房と鎌倉、現代の感覚だと
「海で隔てられている」と考えてしまうけど
当時は「海で直接つながっている」近い場所
だから安房と鎌倉は
平安時代末期から鎌倉時代初期に
最も盛んだった熊野信仰を軸に交流が活発で
熊野信仰を広める窓口として
東京湾に面した中原という地が
鎌倉の山崎にあった泉蔵院の別院の場所に
選ばれたんじゃないかな

源頼朝も政子も熊野信仰に没頭してたからね。

あまりにも中原の地に
熊野神が創建された縁起が
突拍子もなかったので
私なりに考察してみました。

その熊野神社
1910年には、
神社統合令により村内の中原明神や
諏訪神社の二社が合祀されています。