1971年4月に始まった国鉄常磐線・営団地下鉄千代田線の直通用として登場した103系1000番台。本来の役割は約15年で終えましたが、全160両が常磐快速線のほか、105系に改造され西日本の地方線区に活躍の場を移しました。「第二の人生」の足跡をたどってみました。
和歌山線・桜井線などで活躍した元103系1000番台の105系。写真は中間電動車から先頭車化改造されたクモハ105形500番台で、105系の「顔」をしていました=奈良駅、2001年
◾️やや不本意だった地下鉄直通時代
103系1000番台は70年10月から翌71年4月にかけて160両が落成しました。地下鉄線内の勾配を考慮して10両編成中8両を電動車とし、AーA基準の難燃対策を施すなどした専用設計でした。
約3500両と大所帯の103系内では、2灯シールドビーム・ユニットサッシ化された1次改良グループの少し前、試作冷房編成(クハ103ー178、179など)と同期に当たります。
しかし、騒音防止を狙って自然通風式とした主抵抗器は、その放熱がトンネル内温度を上昇させることになり、暑さへの苦情が多く寄せられていたようです。消費電力が大きかったのも悩みの種で、新技術を取り入れていた乗り入れ先の営団6000系と比べると、いろいろと見劣りする車両でした。
103系1000番台はそうした事情もあり、比較的早期の82年に203系電車への置き換えが始まり、86年4月20日をもって、常磐緩行線〜千代田線直通運用から撤退しました。当時の103系1000番台の車齢は15年前後でまだ十分使える車両でした。
営団地下鉄が78年に発売した千代田線全通記念乗車券。103系1000番台(右)も描かれています。中央が営団6000系、左は小田急9000形=筆者所蔵
◾️エメラルドグリーンの常磐快速線へ
103系1000番台の転用では、全160両のうち3分の2近くの104両は松戸電車区に残ったまま、上野—取手間の常磐快速線に回ることになりました。青緑1号(エメラルドグリーン)の車体色に改め、0番台との併結ができるよう改造されました。
常磐快速線は88年に15両編成化されると、変電所容量の関係から103系1000番台の電動車比率が高い編成がネックとなりました。そのため、最終的には編成を組み替え、0番台と多く混結されるようになりました。
1000番台のみで組まれた1本は89年に、営団地下鉄東西線に直通する中央・総武緩行線に移り、こちらは地下鉄に乗り入れる本来の「職種」に戻りました。いずれも2002〜04年に廃車されるまで、首都圏の第一線で30年以上にわたって親しまれました。
82年以降、常磐快速線に活躍の場を移した103系1000番台。結果的に「地上勤務」は地下鉄時代を上回る20年に及びました。写真は最晩年のクハ103ー1011で、1000番台先頭車では最後となる2004年3月に引退しました=上野駅、2003年
◾️105系に改造、奈良・和歌山線などへ
103系1000番台の残る56両は105系に改造され、西日本の地方電化線区に転出しました。
105系は電動車ユニットを1両にまとめた形式で、ローカル輸送に適した短編成が組めるのが特徴。56両の大半は、1984年10月に全線電化が完成した奈良線、桜井線、和歌山線用として、基本2両編成で活躍しました。
桜井線は古墳や神社が点在する古代史に彩られたエリアを走ります。首都圏から訪れた観光客も105系に乗車する機会があったと思いますが、その車両がかつて地下鉄千代田線で働いていたとは気づかなかったことでしょう。
後年は紀勢本線も走った105系は、103系1000番台一族では最も長生きして2019年まで活躍しました。東京側の視点では「都落ち」でしたが、地域や観光の足として貢献したこともあり、幸せな「第二の人生」だったように感じます。
邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とも言われる箸墓(奥)付近を走る元103系1000番台の105系。写真のクハ105形は1000番台らしい外観をよく残していました=巻向—三輪、2004年
◾️広島地区には旧型置き換え用として
広島県の可部線には旧型電車の置き換え用として105系が配置されました。その中で元103系1000番台の車両は、中間電動車を先頭車化改造したクモハ105形500番台でしたが、それらは105系新製車と同じ「顔」をしていました。
しかし05年になって、103系0番台から改造されたクハ105形100番台の置き換え用として、先述の和歌山地区からクハ105ー1、10、11、12、14の5両が移ってきました。こちらは貫通扉が付いたいわゆる「地下鉄顔」で、広島・山口地区特有のトリコロール色や濃黄色をまとい、バリエーションとして人気を集めました。15年にデビューした227系と交代し、16年に引退しました。
可部線では後年、桜井・和歌山線から移ってきたクハ105形も活躍。広島圏でも「103系1000番台顔」が見られました。写真はトリコロール色のクハ105ー14(元クハ103ー1030)=2009年
◾️本州西端の山陽本線で見せた爆走
東京から1000キロ以上離れた山口県・下関地区でも、元103系1000番台は足跡を残しました。クモハ105ー531(元モハ102ー1015)とクモハ105ー532(元モハ102ー1019)の2両は晩年、増結用として余生を送りました。
105系は宇部線、小野田線用でしたが、山陽本線を走る運用もあり、この2両は上り方に増結されて常磐快速線顔負けの高速走行を見せました。
2010年代にもなると元103系1000番台もベテランの域にかかり、浅く硬い座席の座り心地がオリジナルの105系より悪かった印象です。
それでも、乗降ドアが四つあり戸袋窓が残っていた側面や屋根上のグローブ形ベンチレーターなどは103系時代の面影をよく残していて、東京で幼少期を過ごした筆者のような者にとっては、存在するだけでうれしい車両でした。
増結用の2両は16年6月に引退し、クモハ105ー531は下関総合車両所ふれあいフェスタで「お絵かき列車」として最後の活躍を見せました。来場者が車体に書いたメッセージの中には、103系1000番台時代の車番とともに45年の活躍をねぎらうものが多数見られました。
晩年は下関地区で山陽本線の増結用として走った元103系1000番台のクモハ105ー531=2016年
103系1000番台は特殊用途の車両でしたが、形式としては標準型でまとまった数があったことから、特に105系化されたものは長く活躍することになりました。
首都圏の大動脈の一つで混雑率も高い常磐緩行線〜地下鉄千代田線を走っていた車両が、晩年は本州西端の下関でのんびり働いていたあたりに、「鉄道車両人生」の面白さを感じます。
本来の地下鉄運用では期待に十分応えられなかった103系1000番台ですが、西日本の電化ローカル線を支えた功績は大きいものがありました。
※姉妹ブログ「歴鉄2番線」では、本州西端・下関地区で活躍したクモハ105形500番台について振り返っています
【ごあいさつ】
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