別にネタに困っている訳ではありませんが‥‥
先日、三重県松阪市に出張した帰り、近鉄特急の待ち時間があったので、このまえ手に入れた絵葉書について、ふと思い立って「松阪電気軌道」の遺産が残っていないのか、JR松阪駅周辺をぶらぶらしてきました。
「松阪電気鉄道」とは、日本電気協会中部支部のホームページによると、
■「松阪軽便鉄道」は松阪駅を起点に、櫛田川沿いの旅客、阪南郡の木材搬出等を意図した大石線(13哩=マイル)と、大口港(現松阪港)の開発を意識した大口線(2哩=マイル)からなる路線を計画し、明治40年6月に敷設の特許を得た。
■才賀藤吉、安保庸三が参加することで事業化が進み、明治43年10月に設立された。資本金35万円で、「松阪水力電気」同様に、社長に才賀藤吉、専務取締役に安保庸三が就任した。
■敷設工事はやはり才賀電機商会が請負い、大 正元年8月に大石線が開通、従来櫛田川の水運に頼っていた木材はじめ薪炭、製茶、繭糸等を輸送し地域産業の発展に貢献した。翌2年には大口線が開通した。安保は大正2年12月、才賀に代わって社長となり、大正8年には松阪鉄道へと改称、昭和2年には電化を進め、松阪電気鉄道へ改称した。市民から松電と呼ばれて親しまれたが、昭和19年、三重交通に統合され、昭和39年廃止となっ ている。
△絵葉書 松阪鉄道 電化記念「電車」
△絵葉書 松阪鉄道 電化記念「電車内部」
昭和2年の電化記念として出されたのが、上の電化記念絵葉書です。
才賀藤吉、安保庸三とは、明治39年10月に、松阪市内に初めて電気を灯した「松阪水力電気」の経営陣です。以下プロフィールです。
■松阪の電気王といわれた安保庸三は、慶応元年2月、松阪の四方梅次郎の長男として生まれた。幼少時に 惟精準舎で漢学を学び、16歳のとき上京、明治法律学校に入学して弁護士を目指したが、明治18年松阪の安保ひさの養子になって、家督を相続し、貸席業金波楼を経営した。明治26年3月、松阪町の大火により楼閣が焼失したが、火災保険をかけていたため、同業者に先駆けて復興を果たし事業を軌道 に乗せた。明治30年11月に安保も参加して松阪水力電気が発起された。
■才賀藤吉は、三吉電気工場を経て明治29年に独立し、才賀電機商会を起こした。電気機器の販売や電気工事の請負を行なったが、それに止まらず電気事業や鉄道事業の経営に事業活動を拡大し、和歌山水力電気、王子電気軌道、岡崎電気軌道など全国に60社を超える事業を傘下に擁する才賀電気王国を築いた。しかし日露戦後の不況で資金調達に行き詰まり倒産、大正4年不遇のうちに逝去している。
△絵葉書 松阪鉄道 電化記念 「松阪駅プラットホーム」
さて、JR松阪駅を降りて、東南側に向かうとすぐに、大きなコインパーキングがあります。この三交コインパーキング〔松阪駅前〕にかつてあったのが、絵葉書に写っている松阪鉄道の松阪駅です。昭和19年に三重交通に統合され、昭和39年に廃線となっています。たいへん残念です。
とりあえず急ぎまわってきましたので、近鉄の写真とともに報告します。
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