初夏の湖東平野を行く東海道本線の113系。

撮影が昭和61年ということで、国鉄末期ではありますが、まだ車両の立ち位置が明確化されていた時代とリンクします。

この頃、東海道本線大阪口の快速は宮原電車区(大ミハ)、高槻電車区(大タツ)、そして網干電車区(大ホシ)の3区に配備された113系が受け持っていましたが、昭和61年4月現在で宮原に56両、高槻と網干にそれぞれ244両ずつ、合計544両が配備されていました。このうち、高槻配備分には湖西線と草津線用の車(104両)も併せて配備されていたので、東海道・山陽本線で使用する車両はそれを差し引いた440両ということになります。湖西線・草津線用の700番代、2700番代はよほどのイレギュラーでも東海道・山陽本線には充当されなかったでしょうね、きっと。

 

宮原は8両(4両×2で1組)オンリーで、運用に就く編成が6本で予備が4両×2。大半が0番代と2000番代の混合になります。

高槻も8両ですが、中間にサハ111を組み込んでいるのが大きな特徴で、中間にクハを挟んで8両固定としています。

前はね、サハの代わりにサロがくっついていたんですけどね。

8両が16本で4両が3本(いずれも東海道・山陽本線で使う分)。予備車はありません。

そして網干は6両固定と4両固定の陣容になります。

こちらも予備は無く、6両固定が22本で4両が28本。朝のラッシュ時には12両編成で運用されることもあるので、その時は6+6とか、4×3とかで組んでいたんでしょうね。

なお、湖西線・草津線用を含めて宮原と高槻配備分は全車が冷房装置を取り付けていたのに対し、網干配備分は非冷房車の比率がめっちゃ高かったので、画像の車両も網干配備分ではないかと思われます。中には半分冷房車、半分非冷房車という編成もあり(しかも、6両×6編成ありやんの)、冷房改造の過渡期だったのかなと思ったりします。

 

また、これは真説かどうかは知らんけど、宮原と高槻配備分は米原⇔上郡・播州赤穂間だったのに対し、網干配備分は大垣や岡山までの運用があったようです。さすがに大垣⇔岡山間の列車はなかったものの、当時は大垣発網干行きとか、大垣発西明石行きとかの長距離列車もありましたし(「大垣夜行」の常連なら、大垣とうちゃこ後に乗り継ぐ749Mは必須列車でしたよね)、そう考えると網干の113系が大垣まで足を延ばすのは必然かと思ったりします。因みに大垣電車区(名カキ)の車両が米原以西に進出することはありませんし、西明石や姫路から岡山以西へ向かう列車は岡山電車区(岡オカ)の115系が担当してたようです。

この辺りも各鉄道管理局間の縄張りが生きてるんでしょうね。

 

冒頭、「国鉄時代は車両に明確な立ち位置があった」とお伝えしましたが、この頃で言うと、京都-西明石間の各駅停車には103系と201系が、末端部分は普通列車だけど途中で快速になる列車には113系が、そして新快速は117系が宛がわれていました。朝のラッシュ時だけ117系が2編成繋げて快速運用に就くことはあっても、日中で快速運転には原則就きませんでしたし、113系が新快速運用に入ることもありませんでした。

これを今のJR西日本に置き換えると、各駅停車は4扉の207系と321系が使われるのに対し、快速と新快速は223系と225系が主力。ただ、同じ223系や225系でも使い分けがあるようで、6両固定は新快速には充当されない草。でも、パッと見は判りづらいですよね。何か、もうちょっと一手間欲しい。例えば6両固定を新快速で使わないのであれば、腹巻きの色を207系や321系と同じものに変えるとかね。そもそも京阪神間で快速のアイデンティティがあるのかどうかというのも疑問なんですが、速達列車を名乗るなら複々線の外側線を走らせたいですね。

 

 

【画像提供】

い様

【参考文献・引用】

国鉄電車編成表 1986年版 (交通新聞社 刊)

時刻表1986年8月号 (日本国有鉄道 刊)

ウィキペディア(JR西日本223系電車、同225系電車)