2WAYシートに乗車!
中野栄駅から再び仙石線に乗り、さらに先へと進んでいきます。
乗車した車両はいわゆる「2WAYシート」と呼ばれる、クロスシートとロングシートどちらにもできる座席を持つ面白い車両でした。
ただ、2015年からはずっとロングシート状態で固定されているそうです…
松島海岸を過ぎ…
さらに進んでいきます。
やがて列車は高架区間に。
中野栄から13駅、列車は野蒜に到着しました。
読みは「のびる」。難読駅名ですね。
ここで下車。
石巻へと向かう列車を見送ります。
この駅はけっこう高台にある駅のようです。
改札口を抜け、外へ。
真新しい駅舎が出迎えてくれました。
2つ目の野蒜駅?
さて、ここから少し歩きます。
まずは野蒜駅連絡通路を通って駅の反対側へ。
そこから家々のほうへと階段を下っていきます。
さらに歩いていくと…
何やら建物が見えてきました。
さらに近づいていくと…
えっ…駅のホームが?
しかも、駅名標には「野蒜」の文字。
えっ、野蒜駅って私がさっき降りたところでは…?
突然現れた2つ目の野蒜駅。
この正体は……2011年3月11日まで使われていた旧駅です。
3.11。
そう、日付からも分かる通り、この駅は東日本大震災の津波で被災した当時の駅なのです。
2011年3月11日14:46、三陸沖で発生したM9.0の大地震の際、海に近かったこの野蒜駅は津波の直撃を受けました。
この駅を含む陸前大塚~陸前小野間は特に被害が大きく、復旧にあたっては線路を内陸に移設することとなり、野蒜駅も内陸側に移りました。
そして、使われなくなった旧駅は現在もそのまま残され、「東松島市震災復興伝承館」として保存・活用されているのです。
今回はこの旧野蒜駅の様子を見ていきたいと思います。
もう、列車が来ない駅
まずは駅舎から。
三角屋根の白い建物です。
1996年に建てられたもので、奥松島観光センターと同居していたようです。
中に入り、2階へと上がります。
よく見ると、階段の上に浸水線を示すテープが貼ってありました。
その位置はほぼ2階の高さ。
こんなところまで津波が来ていたんですか…
1階が完全に水没し、2階にまで届く水位。
改めて恐ろしさを感じます。
そして…ここに津波被害を受けた当時の設備が…
近距離券売機です。
Suicaマークのあるごく普通の券売機ですが、画面やコイン投入口がめちゃくちゃに壊れて、中の配線がむき出しに。
こんなにもボロボロになってしまった姿を見るのはとっても悲しいですね…
ただ、もう二度と動くことのないこの券売機も津波の恐ろしさを伝えるという新たな役割を与えられて保存されています。
2階部分は展示室。
あの日の被災状況が写真と映像で克明に記録されていました。
駅だけでなく家も道路も、いや、街全体が瓦礫に覆い尽くされた惨状は改めて見ても衝撃的です。
2階のバルコニー部分に出てみました。
当時はここに机を重ねることで屋根への道を作り、無事屋根に上がって避難することができたそうです。
ちなみにこのバルコニーは海の方向を向いているのですが、海の姿をここから見ることはできません。
見えないところから水の壁が押し寄せる光景はどれほどまでに凄まじいものだったのでしょうか…
それでは、いよいよホームを見てみましょう。
建物を出て、駅跡構内に入ります。
柵にはこんな注意書きが。
「電車はもう通りませんが、安全に十分気をつけてご観覧ください。」
「Please be careful though trains will not come anymore.」
もう、通らない。
路線が廃線となったわけでもないのに、ある日突然津波に襲われ、二度と列車が止まらなくなったプラットホームの悲哀がこの言葉に詰まっています。
現駅と同じく1面2線のホームになっています。
JR東日本標準の駅名標がぶら下がるホームは一見なんの被害も見当たらず、今にも列車が来そうに思えますが…
二度と来ないんですよね……
ただ、駅舎によって波が遮られることがなかったホーム先端側は様子が異なります。
駅名標はぐにゃりと曲がり、点字ブロックはあちこち剥がれ…
よく見ると線路までもが山側に押し流されています。
線路を曲げてしまうだけの津波の威力。恐ろしいの一言に尽きます。
そして、線路はホーム先端でぷつんと切られていました。
もう、あおば通にも石巻にも行けない線路。
せめてこれからも津波の恐ろしさを後世に伝える存在として末永く保存されてほしいですね。
続きます。
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