特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン」訪問記〜その7 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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みなさんこんにちは。前回からの続きです。


おらが街「東大阪市民美術センター」で今夏に開催された、特別展「みんな大好き!近鉄電車のデザイン展」を訪問した際の様子をお送りしています。




美術センターの最寄りを走る「近鉄奈良線」。
広大な路線網を誇る、近鉄の大幹線です。

1914(大正3)年4月の開業から110年を迎えたと前回記事でも触れましたが、大阪と奈良とを直線の電気鉄道で結ぶに当たり、府県境にそびえる「生駒山」を越える長大なトンネルを実現させたことが、その成功の大きな要因でした。大和西大寺にて。さらにグーグル地図を加工。



「生駒トンネル」で使用されたレンガ。貴重な歴史的遺産です。


しかしながら、戦後に入ってから沿線の急激な開発が続き、関西私鉄でも屈指の混雑路線となった「奈良線」。

かようにして輸送力の増強が計画されるのですが、そこに立ちはだかるものがありました。大正期に苦難の末、開業させたまさに「生駒トンネル」がその要因でした。


では、そのあたりの経緯については、手元の「近畿日本鉄道 最近20年のあゆみ(近畿日本鉄道編 昭和55年10月発行)」より。

当社発祥の路線である奈良線は、当社の最多客路線で、昭和37年当時1日30万人の旅客を輸送し、大阪・奈良間の最短交通路として大都市圏交通上重要な役割を果たしていたが、難波への乗り入れ計画(注釈:昭和45年3月15日に、上本町〜難波間が地下線により延伸開業)や急速な沿線開発等により、さらに旅客の飛躍的な増大が予測されていた。


一方、その輸送力については、昭和31年、上本町〜布施間の複々線化を機に高性能の中型軽量車800系を投入して上本町・奈良間を30分で結ぶ特急(特急料金不要、現在の快速急行に相当)を新設し、その後も年々列車の増発および車両の増結を行い、また、36年秋には上本町・瓢箪山間に従来の1.5倍を有する大型車を運転するなど、その増強に力を注いできた。

生駒トンネルを抜け大阪に向かう特急800系。孔舎衛坂(くさえざか、現在は廃止)にて。


しかしながら、瓢箪山以東については、生駒トンネルをはじめ、他の各トンネルの断面が狭小で大型車を通すことが出来ないため、数年のうちに輸送の行き詰まりを招くおそれがあった。


この打開策として種々研究を進めた結果、新たに断面の大きい新生駒トンネルを掘削するとともに、瓢箪山以東の路線規格を拡大して奈良線全線に大型車を運行することとし、昭和37年3月、第1期工事として瓢箪山・生駒間7.3キロの路線改良計画実施を決定した。(中略)



新生駒トンネルは延長3494メートル、在来のトンネル(生駒トンネル)の南側をほぼ平行に55メートルを隔てて複線断面で建設するもので、同時に石切・孔舎衛坂(くさえざか)両駅間の鷲尾(わしお)トンネルをオープンカットして、その跡に両駅を統合した新・石切駅を建設することとし昭和37年9月着工した。(中略)


昭和38年10月には新トンネルの導坑貫通式を挙行、着工以来1年10ヶ月の短期間をもって39年7月に完成し、同時に瓢箪山・石切間および生駒駅構内の路線規格拡大工事も完了、23日始発から営業運転を開始した。

さらに7月30日から上本町・生駒間の普通列車全部を大型車4両編成とした。



昭和39年9月、新向谷トンネル(山を越えた奈良側の東生駒〜富雄間)の完成により、10月1日を期して上本町・奈良間特急をはじめ奈良線全線に大型車の運行を開始し、ここに画期的な輸送力増強を実現した。(後略、P4-6)



ここでいう「大型車」というのが現在、近鉄電車の標準となった「4枚扉・車長20m級」の規格を持つ車両、900系でした。




路線規格向上のシンボルとして1961(昭和36)年以降、新トンネルの開業前から規格の拡大が完了した区間から順次投入され、車長15m級の小型旧型車両を一気に置き換えたのでした。見た目にも、これは小柄ですね。



これと同じくらいの寸法の鉄道車両というと、「東京メトロ銀座線」や「名古屋市地下鉄東山線」がそうです。大都市圏の郊外から都心に向かう鉄道としては輸送力という点では、かなり限られてしまいます。出典①・②。


大正時代に開業したままの、小さい路線規格では車両も小型にせざるを得ないために、輸送力増強のためには、わざわざトンネルをあたらしく掘削しなければならなかったほどの手間や、多額の費用を要したことがよくわかります。

ところで、大型車の導入を阻んだという「生駒トンネル」と、大型車が通過出来る「新生駒トンネル」の差異というのは、どのようなものだったのか。


各々を比較した、わかりやすいパネル展示もありました。なるほど、全然大きさが違います。


大正に開業した、レンガ積みの「生駒トンネル」は小型車がぎりぎり通過出来るほどのもの。


一方、「新生駒トンネル」は幅の広さもさることながら、天井の高さが目に留まります。


大型車(左、8000系)、小中型車(右、820系)との並び。やはりだいぶとサイズは違います。出典③。



新トンネルは、旧トンネルから50mほど南側に掘られたものですが、建設期間はわずか1年10ヶ月ほどだったということが、大正初期と昭和の高度経済成長期との技術力の成長の差を如実に物語っています。


ちなみに、新トンネルの開業で不要になった「生駒トンネル」は混雑著しい「奈良線」のバイパス路線として開業した「近鉄東大阪線(現在はけいはんな線)」の「生駒トンネル(2代目)」として生駒側の一部が転用されました。


その、「旧生駒トンネル」を再利用した「近鉄けいはんな線」車中より。「生駒トンネル(2代目)」を抜けて、生駒に到着。

トンネルの前後で天候がまったく違うことも珍しくないこともあり、それゆえに生駒山の存在の大きさを感じさせられます。


なるほど、このような大規模な路線規格拡大がなされなければ、阪神電車との乗り入れもできなかったことです。大和西大寺にて。




普段から見慣れ乗り慣れている地元路線ですが顧みますと、実に大変な変化があったのだなと感嘆します。「新生駒トンネル」に進入する急行。石切にて。


次回に続きます。

今日はこんなところです。


(出典①「フリー百科事典Wikipedia#東京メトロ銀座線」)

(出典②「フリー百科事典Wikipedia#名古屋市営地下鉄東山線」)

(出典③「ヤマケイ私鉄ハンドブック13 近鉄」廣田尚敬写真・吉川文夫解説 山と渓谷社発行 1984年7月)