柏原南口駅から川沿いに東に向かって歩いて行くと歩道沿いにたくさんの碑が並んでいる大和川治水記念公園が見えてきます。
前々回紹介した対岸の藤井寺市は橋の袂に碑がありましたが、こちら右岸の柏原市は少し離れた場所に建てられています。
また、川の付け替えだけでなく奈良時代の和歌から明治時代の治水防災への顕彰碑まで古代から近代にわたる大和川ゆかりの碑が複数併設されています。
柏原南口駅から来て進行方向順に西側から順番に紹介していきます。
久保田翁寿碑と
深瀬郡長顕彰碑、
それぞれ久保田伝次郎、瀬和直という人物が大和川の治水に尽力したことを称えて建てられた碑です。
健野府知事顕彰碑
明治18年に大阪府が洪水に見舞われた際に当時の府知事建野郷三氏が橋の再建と近代化(鉄橋化の促進)などに寄与した功績を称えたもの。
現在にも通じる災害に強い街づくりですね。
畑中翁碑
ここでようやく川の付け替えに直接関連する碑、
大和川付け替え当時、大坂の堤奉行であり代官だった万年長十郎に従った畑中六右衛門という人物の功績を称えた碑、
ここでこの公園内でも最も目を引く銅像が見えてきます、
「中甚兵衛翁像」とあります。
中甚兵衛は今米村(現在の東大阪市、けいはんな線の吉田駅や阪神高速の水走出入口の近く)の庄屋の生まれ、50年近くの歳月をかけて大和川の治水や川の付け替えを幕府に陳情し続け着工に導く、工事の際には農民でありながら並みいる藩士(武士)に交じって指揮を執るなど多大な功績があった人物。
最初に川の付け替えを願い出るのに江戸に下ったのが19歳の時、35歳で大坂に戻るもその後も嘆願陳情を続け着工時には66歳、
図面を持って付け替え地点を指差すポージングや顔の表情などリアルな造形になっています。
大和川付替二百五十周年記念碑
昭和29年(1954)、宝永元年(1704)から250年を記念して建てられた碑、
碑文は当時の大阪府知事赤間文三氏の書によるもの。
1703年代大和川流域の図
普段よく見る北が上ではなく左になっている図、手前が大阪湾で奥が生駒山地というアングルになっています。
この公園の東の末端まで来ました、
最後の碑は付け替え工事から大きく過去に溯った奈良時代に詠まれた大和川ゆかりの万葉歌碑、
河内の大橋を独りゆく娘子を見る歌一首併せて短歌
高橋虫麻呂
級照る 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ
紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただ独り
い渡らす児は 若草の 夫かあるらむ 樫の実の 独りか寝らむ 問はまくの
欲しき 我妹が 家の知らなく
反歌
大橋の頭に家あらばま悲しく独りゆく児に宿貸さましを
片羽足川とは今の大和川か石川のこと、級照る(しなでる)は片羽足川の枕詞、
丹は朱よりも黄色味を帯びた赤、反歌は本文である長歌の補足、
橋の上を綺麗な服を着た娘が独り渡ってるけど既婚者なのか独り身なのか、
聞いてみたいけどどこに住んでるのか分からない、(反歌)この大橋の袂に家があったら泊めてあげるのにな
といった内容、
当時この地域には渡来人の氏族が多かったらしく異郷の美女への憧れのようなものを詠んだ歌で、長歌であることや衣装や色彩の詳細な描写などもそうなのですが、これまでに見た歌碑の内容とはかなり異質に感じたのですがそれもそのはず、
当時の他の歌人が自分の身辺のことを詠んだ歌が多いのに対して虫麻呂はそういった題材は扱わない作風で、美しい女性への憧れを詠んだ歌が多いにもかかわらず自身の恋の歌は詠まなかったのだそうです。
ずらりと並んだ碑をひととおり見終わると安堂交差点に差し掛かります。
ここまで来たら引き返すのも面倒なのですぐ先にある近鉄大阪線の安堂駅へと移動、
ちょうど横をJR大和路線の221系が通り過ぎていきました。