ここからの続きですが、
手前の石碑は三郷駅の近くや大和朝倉にもあった万葉歌碑、
人もねの うらぶれ居るに 龍田山 御馬近づかば 忘らしなむか
山上憶良(やまのうえのおくら)が赴任先の九州の大宰府において、同じく赴任していた大伴旅人が昇進し奈良の都に旅立つ際に詠んだ惜別の歌、
「ここにいるものが皆(別れを惜しんで)侘しく思っているのに、龍田山に馬が近づいた頃にはあなたは(この場にいる皆のことを)もう忘れ去っているのではないか」
大伴旅人(おおとものたびと)は万葉集を編纂した大伴家持の父で知られる奈良時代の高官で歌人、
最近では今の元号「令和」の出典元となった梅花の歌
「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」
(しょしゅんのれいげつにして きよくかぜやわらぎ うめはきょうぜんのこをひらき らんははいごのこうをかおらす)
で注目を集めたほか、
鉄道好きには西日本鉄道の大宰府観光のラッピング電車「旅人-たびと―」といえばピンとくるのではないでしょうか。
大宰府で上司と部下の関係だった大伴旅人と山上憶良はこれ以外にも歌を送り合っていてそれらも万葉集に収められています。
そしてその横にはかつてこの“旅人”が通った、そしてついこの間も電車を写すのに“わたし”も通った(一緒にするなって話ですが)龍田古道の難所、亀の瀬峠の日本遺産認定記念のプレート、
そして最も目を引く一番奥に見える鉄道車両、斜めっていることからすぐにわかりますがケーブルカーの車両。
近づくと四方を柵で囲まれ線路も途切れているので静態保存、展示車両だとわかります。
生駒鋼索線と箱根鋼索線に次いで日本で三番目に出来たケーブルカー路線だったのですが1983年8月に惜しまれつつも廃線となった東信貴鋼索線の車両「コ9形」
ここで稼働中の写真が残っていたので載せておきます。
さよなら運転の装飾で隠れていますが車番は9、展示しているのと同じ赤い方の車体、
引退後長らく近くにある三郷北小学校の中庭に保存されていたのですが2020年から今の場所に移設され一般公開されるようになりました。
現役最後の雄姿、紺色の車番10は廃線直後に廃車解体されています。
かなり昔のものだけにネガも見つからなかったのでアルバムの写真をそのままスキャンして若干色補正もしています。
周囲をぐるりと、
保存車の位置は改札を出たところから見てこの位置、駅を出てすぐ横の広場に置かれています。
当時の路線配置図や沿革なども掲示されています。
信貴山下駅のロータリーから伸びる坂道が、
40年前にはこういう風景でした。
今はケーブルカーに代わってここから出るバスが信貴山門までの間を結んでいます。
山上の終点の駅舎も残っているので一緒に紹介しておきます、
東信貴鋼索線の旧信貴山駅、
もう10年以上前の写真になりますが、今もなおバスの待合室として利用されています。
信貴山朝護孫子寺、ちょうど桜のシーズンでした。
信貴山参りは毎回車でパーキングまで直接乗りつけて行くため、ここのバス停に寄ることはなかったのですが、この時はたまたま立ち寄って写していました、奥に小さく写りこんでいるのは、
この頃の愛車だったアルファ156、歴代で一番長い付き合いだった車なので懐かしく思い出します。
2022年の寅年の臨時準急の時も
上本町で見て来ただけで、参拝は自家用車でした。
バスの待合室ですが鉄道駅の面影はそのまま、
沿線案内図も、
東ケーブルの山上駅の「信貴山」を見え消しした跡がまるわかりな上、
反対側の西ケーブルに行く乗換駅の河内山本がただの「山本」になっていたり、
20年以上前に閉園になった玉手山遊園地とあやめ池遊園地がそのまま掲載されていることからかなり年季の入った看板だとわかります。
その西ケーブルは今も現役、
こちらは西ケーブルに接続する近鉄信貴線のホーム、
こちらが西信貴鋼索線のホーム、
西信貴鋼索線のケーブルカー、こちらはつい最近写したものです。
こちらの大阪からのアクセスルートに利用客を取られたのも東ケーブル廃線の一因となっていたようです。
ただ、西ケーブルの山上駅「高安山」から朝護孫子寺までは少し距離があってバス移動になるのですが、東ケーブルの山上駅は参道にダイレクトに接続していました。
大阪方の接続駅は信貴山口で、
奈良方の接続駅は信貴山下になっています。
今回は信貴山朝護孫子寺にはお参りしませんでしたが、ケーブルカーの保存車を見たり1983年、2013年、2022年、2024年の写真を見返すことでそれぞれの時のことを懐かしく思い出すことができました。