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ピアノ四重奏第1番 op.23 第2楽章
A.Dvořákドヴォルザーク(1841-1904)
ドヴォルザークはボヘミアで生まれ、東ヨーロッパ国民学派の作曲家でした。彼はオーケストラの音楽家で、プラハ音楽院の院長でもありました。
米国への旅行が、彼に la Symphonie du Nouveau Monde(交響曲『新世界より』)と le Quatuor américain(弦楽四重奏『アメリカ』)創作のインスピレーションを与えました。
ピアノ四重奏曲第1番 作品 23 第2楽章。
人気の主題が提示され、5 つの変奏が続きます。
テーマ
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ピアノ四重奏曲第1番は、1875年わずか18日間で書き上げらています。そのころ得られたオーストリア政府国家奨学金(400グルデン)は、当時の彼の年収(126グルデン)の2倍以上に相当するものでした。以降5年間、学金を得るために提出した作品は、ブラームスらの目に留まることにもなります。
学び
● La tonalité de Si mineur ー
● Le jeu en doubles cordes
● La modulation au ton relatif
● La pédale de tonique en Ré Majeur
ドヴォルザークの生涯
1841(0歳)
北ボヘミア生まれ。生家は肉屋と宿屋を営む。
1850(9歳)
小学校を中退、ズロニツェで肉屋の修行する。
ところが、この町の職業専門学校の校長で、ドイツ語を教えていた(当時、肉屋の技術修得書を得るためにはドイツ語が必修であった)アントニン・リーマンは、教会のオルガニストや小楽団の指揮者を務め、教会音楽の作曲も行った、典型的なカントルというべき人物で、ドヴォルザークにヴァイオリン、ヴィオラ、オルガンの演奏のみならず、和声学をはじめとする音楽理論の基礎も教えた。
1855(14歳)
両親はズロニツェに移り、飲食店を始めた。
1856(15歳)
経営状況が悪化、肉屋を継がせようとした。
1857(16歳)
リーマンと伯父の支援で、オルガン学校入学。
1859(18歳)
優秀な成績で卒業、ビオラ奏者で楽団に入団。
1866(25歳)
チェコ国民劇場の指揮者にスメタナが着任。
1871(30歳)
オーケストラを辞し、作曲で生計を立てる。
1873(32歳)
賛歌『白山の後継者たち』が成功。結婚する。
1874(33歳)
プラハ聖ヴォイチェフ教会オルガニスト就任。
1875(34歳)
オーストリア政府国家奨学金(400グルテン)
1877(36歳)
作品がブラームスの目に留まり、賞賛される。
音楽家としての栄光に踏み出したドヴォルザークだが、その家庭は不幸に襲われた。1877年8月に次女ルジェナが、翌9月に長男オタカルが相次いでこの世を去ったのである。彼らの冥福を祈り作曲されたのが、ドヴォルザークの宗教作品の傑作『スターバト・マーテル』であった。
1878(37歳)
『スラブ舞曲集』作曲。ドボルザークは有名に
このころのドヴォルザークはリストの『ハンガリー狂詩曲』をモデルにそのチェコ版を目指しており、チェコの舞曲や民族色を前面に押し出した作品を多く作曲する。また、この傾向は、そうした作品を期待する出版者や作曲依頼者の意向に沿ったものでもあった。たとえば、フィレンツェ弦楽四重奏団の第1ヴァイオリニスト、ジャン・ベッカーは「新しいスラヴ的な四重奏曲」を依頼し、ドヴォルザークはこれに応えてチェコの民族舞曲や、ウクライナ民謡「ドゥムカ」の形式を採り入れた弦楽四重奏曲第10番(1879年)を作曲している。また、『チェコ組曲』も同年の作品である。
1884(43歳)
イギリスやベルリンで指揮者として招聘される
1888(47歳)
チャイコフスキーとの交流が始まる
叙勲
1889年(48歳)鉄冠勲章(ドイツ語版)三等
1890年(49歳)チェコ科学芸術アカデミー会員
1891年(50歳)プラハ大学より名誉博士号、
ケンブリッジ大学より名誉音楽博士号
公職
1890年(49歳)プラハ音楽院教授就任を受諾
1891年(50歳)ニューヨーク・ナショナル音楽院
音楽院院長職の就任依頼
ドヴォルザークは、初めこれに対して辞退の意志を伝えたが、サーバー夫人の熱心な説得と高額の年俸提示に逡巡した末、同年末に契約書に署名をした。年俸15,000ドルという提示額は彼がプラハ音楽院から得ていた金額の約25倍であるし、彼はこの時13歳を頭に6人の子の扶養を行っていたのである。
1892(51歳)渡米
1893(52歳)交響曲第9番『新世界より』
弦楽四重奏曲『アメリカ』
1894(53歳)ニューヨーク・フィル名誉会員
1895(54歳)帰国。プラハ音楽院で教鞭をとる
1896(55歳)9回目のイギリス訪問
さまざまな栄誉を身につけたドヴォルザークであったが、彼にはオペラで大当たりを取ったことがないという焦燥感があった。
1899(58歳)オペラ『悪魔とカーチャ』大成功
1901(60歳)オペラ『ルカルサ』大成功
様々な事情でウィーンで上演される機会を逃し国際的な名声を生前に受けることができなかったことで、ドヴォルザーク自身は決して満足できず、これ以後もオペラの作曲を続けるが、最後の作品であるオペラ『アルミダ(英語版)』(1902年 - 1903年作曲、1904年3月25日初演)は、初日から不評に終わってしまった。
1904(63歳)死去