地理学徒の語り

Geographer's Tweet

滋賀・岐阜県境

 滋賀県岐阜県の県境に行ったことがある。両県の県境はその大部分が山岳の稜線だが、私が行ったのは、容易に行くことができる、県境が人里を横切っている部分である。滋賀県米原市(旧坂田郡山東町)長久寺集落と岐阜県不破郡関ケ原町今須集落の間の境界だ。

 東西方向に通じる旧街道に並ぶ民家と民家の間に、一筋の溝が街道を横切っている。流れる水はほとんどなく、幅1メートルもない浅い溝だ。実はこの溝が県境とは、そのことを記した碑が立っていなければ、誰も気づかないだろう。

 側にはこんなことを記した案内板もある。この辺りは「寝物語の里」と言われる。境を挟んだ家屋の中の者どうしが、寝転びながら話すことができたからだという。

 見た目は県境とは思えないような県境なのだが、この県境は、歴史的、社会経済的、文化的に、一般の県境より太くて深い。

 ここに境界線が引かれたのは、歴史的には律令時代まで遡ることができる。遅くとも西暦700年頃までには、近江国(現滋賀県)と美濃国(現岐阜県)の境界となっていたようだ。以来1300年以上、境界であり続けている。

 そして、ここは、県よりも高度で広域な地域の境界でもある。国土交通省近畿地方整備局中部地方整備局財務省近畿財務局と東海財務局、大阪高等裁判所名古屋高等裁判所など、多くの政府の地方機関の管轄区域の境界となっている。大手企業の大阪支社と名古屋支社の管轄区域の境界も、多くの場合、ここに重なる。

 いわゆる「関西弁」が話される範囲は、この境界の西側までだ。東側は東海地方の方言になる。この二つの方言はアクセントが大きく異なり、よそ者が聞いてもはっきり違いがわかる。

 よく言われる雑煮の文化圏。西日本の味噌汁・丸餅と東日本のすまし汁・角餅の境界線も、その手の資料によれば、ここにあるらしい。

 いくつもの境界線が重なる「太くて深い」境界だか、一方で、これを越える交流の面に目を向けてみる。

 ここは、古代には、飛鳥、奈良の都から東国へ通じる東山道が通っていた(近江と美濃は両方とも東山道に所属)。付近には、この途上に設けられた不破関(ふわのせき)という関所の跡がある。

 時代が下って、東西から来た軍勢が激突した関ヶ原の戦いはこの付近でのことだ。それも、この地の回廊性の故のことだろう。

 後の江戸期には、五街道のひとつ、中山道が通じて、京と江戸の間を往来する旅人が行き交った。この一帯にも柏原、今須などの宿場が賑わった。

 近代になって鉄道が敷設されると、日本の東西を結ぶ大幹線の東海道本線はここに通された。現代でも東海道新幹線名神高速道路という大動脈が通過する。

 なぜここに交通路が集中するのか。滋賀・岐阜県境には伊吹山系が連なり、その南には鈴鹿山系が続いている。ここは、ちょうど両山系の間の途切れ目で、障壁に開いた回廊のようにになっている。

 そのため、冬の強い北西の風によって日本海から滋賀県に流れ込んだ雪雲が、この回廊を吹き抜けて、岐阜県から愛知県にかけて広がる濃尾平野に雪を降らせる。

 ここ滋賀・岐阜県境に開いた通路は、人文面から自然現象にまで影響を及ぼす、一大回廊なのだ。