番外 翌年には廃止となる列車です、昭和58年の時刻表から参考、夜行普通列車「ながさき」ヒストリー | コウさんのコウ通大百科 PART3

コウさんのコウ通大百科 PART3

在住する九州を中心に、鉄道・バスを中心としました記事を毎日更新しております。
(平成24年1月〜平成30年3月の記事はPART2の内容です)

 
 
 
 鳥栖~長崎間を結びます長崎線と言いますと、その鳥栖~長崎間は152キロに及びます路線でありますが、これまでも当ブログでもご紹介しておりますように、現在電化区間は鳥栖~肥前浜間のみでありまして、以降の区間に関しましては非電化となっております。
 
 電化区間に関しましては、特急列車の場合、鳥栖~江北間で佐世保線に乗り入れます西九州新幹線のリレー列車であります885系電車・787系電車・783系電車で運行の「リレーかもめ」や、885系電車・783系電車の「みどり」、783系電車の「ハウステンボス」、電化区間末端の1つ前の肥前鹿島駅までは885系電車・787系電車・783系電車で運行の「かささぎ」、そして毎週月曜日のみではありますが末端の肥前浜駅まで787系電車で運行の「36ぷらす3」、そして「有明線」区間を運行しますキハ40系気動車「ふたつ星4047」によって運行されているのが現状であります。
 
 一方、普通列車に関しましては、電化区間では817系電車・811系電車・813系電車(鳥栖~江北間)・415系電車(鳥栖~佐賀間)が運行されておりますし、唐津線に乗り入れます久保田~佐賀間ではキハ47形気動車とキハ125形気動車、そして非電化区間では大村線にも乗り入れますYCI系気動車と江北~諫早間の上下分離区間を中心に運行しますキハ47形気動車がそれぞれ運行されているのが現状でもあります。
 
 所要時間も、通しがなくなっているためわかりにくいですが、乗り換えがうまくいけば約3時間で行く事が可能となっております。やはり、肥前鹿島駅以降一般の特急列車が運行されておりませんので、(「D&S列車」の「ふたつ星4047」を除きます)、退避や行き合いが少ない分、スピードアップを図っている事が伺わせております。
 
 
 さて、今回ご紹介しますのは、この長崎線や大村線、そして佐世保線を運行しておりました、夜行普通列車「ながさき」と呼ばれる列車が運行されておりまして、門司港~博多~早岐~佐世保・長崎長与経由)で運行されていた列車が存在しておりました。今回は運行末期時でもあります昭和58年当時の時刻表を参考にしながら皆様にご紹介してまいります。
 
 
 昭和58年当時の長崎線は、佐賀県で国体(「若楠国体」)が開催されました昭和51年の鳥栖~佐賀~(市布)~長崎間の電化以前にはDD51形ディーゼル機関車が牽引しました旧型客車やキハ55系気動車と言った列車が運行されておりましたし、全線電化以降は421・423系電車や415系電車が運行されていた頃でありました。
 
 また、気動車も当時最新鋭の気動車でありましたキハ40系気動車からキハ55系気動車と言った気動車が運行されていた頃でもありまして、気動車列車は翌昭和59年に583系電車の改造車でありました715系電車、そして現在は宮崎地区で運行されております713系電車が導入されるまで運行されておりました。
 
 (415系電車FM5編成)~平成22年撮影、ミレニアム塗装時
 
 
 さて、今回ご紹介します夜行普通列車「ながさき」は、当時長崎港から上海航路が運航されていた頃からのアクセスとして運行されていたものでありまして、戦前から門司港~長崎港・佐世保間で運行されておりまして、このうち長崎編成に関しましては、元々は長崎駅から南にも長崎港駅が存在しておりまして、「上海航路連絡列車」として運行されておりましたが、その後長崎~長崎港間が休止となりまして、それ以降は門司港~長崎間での運行にとどまっておりました。
 
 以降の運行区間も・・・
 
 門司港~(鹿児島線)~鳥栖~(長崎線)~肥前山口~(佐世保線)~早岐~佐世保・早岐~(大村線)~諫早~(長崎線)~長与~長崎
 
と、肥前山口(現・江北)~長崎間に関しましては佐世保線・大村線を含めまして、かつて長崎線と呼ばれていた路線の区間を通しで運行する路線でもありまして、所要時間も、門司港→長崎間が8時間(うち鳥栖→長崎間が4時間49分)、長崎→門司港間が8時間44分(長崎→鳥栖間が5時間28分)、門司港→佐世保間は6時間08分、佐世保→門司港間は7時間14分で結んでおりまして、夜出て朝着く形から通勤列車の役割も果たしている部分も見られておりました。
 
 
 使用されておりました車両は、寝台車であります10系客車オハネフ12形1両、一般の客車であります43系客車スハフ42形他6両、さらにはオユ11形郵便車1両、マニ36形荷物車2両計10両編成で門司港~早岐間を運行しまして、早岐~長崎間は8両、早岐~佐世保間は2両で運行されておりました。また、牽引機関車は、門司港~早岐間はED76形電気機関車、早岐~長崎・佐世保間はDD51形ディーゼル機関車の牽引となっておりました。
 
 (平成13年撮影)~筑豊線普通列車運行時代
 
 ちなみに、「ながさき」の愛称は昭和51年から急行などで付けられておりました愛称を格下げする形で愛称が付けられるようになりましたが、これは寝台車が存在していた事で指定席での扱いになる事でマルス発売の必要性から愛称が付けられるようになったそうであります。
 
 
 ここからは当時の時刻表よりご紹介してまいります。尚、他の色の囲みにはこの時に「ながさき」以外の特記点も出しておりますので、併せてご覧いただければとも思います。
 
 
 まずは、1421レ門司港→鳥栖間です。この「ながさき」では普通列車の名目でも、通過する駅が存在しておりまして、この門司港→長崎間では新中原(現・九州工大前)・水巻・東福間・箱崎・白木原(現・大野城)・田代・肥前麓・伊賀屋・小串郷・東園・本川内の各駅が通過扱いとなっておりまして、今の快速に匹敵する所も見られておりました。
 
 ちなみに、この頃では赤囲いの20系客車+12系客車によります急行「かいもん」が健在でありましたり、橙色で表しております西鹿児島(現・鹿児島中央)駅からの「にちりん42号」が8時間32分かけまして運行されておりましたり、黄囲いで表しております現在の特急「きらめき」名義に近い列車が深夜に運行されていたりと変わった姿が見られていた頃でもありました。
 
 
 こちらの画像は、鳥栖→長崎間を表しておりますが、深夜でも鳥栖駅1時41分着1時51分発、佐賀駅が2時21分着、武雄温泉駅が3時17分着と、後述の上りを含めまして、佐賀県内では深夜に停車していた事がわかります。実際に利用者がいらっしゃったのかはわかりかねますが、接続列車自体もないだけにどうなんだろうか?と言う印象さえも感じさせられます。
 
 尚、早岐駅で切り離し作業を行っておりましたので長崎行き17分、この駅から向きを変えまして4421レとなります佐世保行きは32分も停車しておりますが、佐世保行きに関しましては転線も行っていたとの事でありまして、まさに時間調整かなとも思う所でしょうか。ちなみに、この頃はまだ「あかつき」も健在でありまして、「1号」からもわかりますように複数の本数が存在していた頃でもあります。
 
 
 こちらの画像は、大村線の時刻でありますが、この時間帯ともなりますと、始発列車に近い時間帯に入ってまいります。特に諫早駅には5時37分着、さらに上の画像にもありますようにこの「ながさき」は長与経由で運行されておりましたので、1時間近い57分もかけまして長崎駅には6時40分に着く形になっておりました。
 
 また、赤囲いからもわかりますように、当時は急行「平戸」も存在していた頃でもあります。現在は快速「シーサイドライナー」が運行されております大村線ではありますが、この「平戸」は数少ない大村線の優等列車でもあった事が伺わせております。
 
 
 こちらは、復路の長崎→門司港間1420レ(佐世保→早岐間4420レ)であります。長崎→門司港間では本川内・東園・岩松・千綿・小串郷・三河内・伊賀屋・肥前麓・白木原・東福間・水巻・新中原の各駅が通過扱いとなっておりまして、早岐駅では佐世保駅発が1時間12分、長崎駅発も50分も停車を行っておりまして、下りと同様転線も行っていたようでありました。
 
 また、この頃は「かもめ」・「みどり」は併結運転を行っておりまして、肥前山口駅で分割・併結が行われておりました。当時は中には「みどり24号」のように10分も停車していた列車もありまして、そう言った事から所要時間も現在より長かった事も伺わせております。
 
 さらに、「あかつき4号」ともありますが、この列車は先述の1号とともに博多経由で運行されておりましたが、当時は2・3号に関しましては筑豊線経由でも運行されておりまして、実際に定期列車で筑豊線経由の優等列車が存在していた事が伺わせてもいました。
 
 
 こちらは、大村線上りであります。「ながさき」は早岐駅に1時05分に着くようになっておりましたが、この時間帯から見ましてもまさに最終列車的な役目を果たしていた事がわかります。尚、現在の早岐駅着の大村線の最終列車は23時45分ですので今より1時間以上遅くまで運行されていた事もわかるのではないでしょうか。
 
 
 そして、画像は鳥栖→博多→門司港間を表しております。鳥栖駅には4時28分着4時48分発、博多駅には5時26分着5時35分発、小倉駅には7時13分着7時18分発、そして終点門司港駅には7時44分着となっておりますが、この時刻を見ましても始発列車・通勤列車としての役割を果たしていたようでしたが、ラッシュ時にかかってくると思われます北九州地区となりますと、出入口自体も狭かった事もありまして、混雑もしていたのでは?と想像する所でもあります。
 
 所で、時刻表を見ますと急行「かいもん」は博多駅に5時33分着5時42分発、「ながさき」は先述のように5時26分着5時35分発と博多駅で一度ホームを並べてもいた事にもなります。そして、古賀駅で「かいもん」は「ながさき」を抜いて行く形であったようですが、こういった形で運行されていたのもまさに当時の姿かなとも思う所であります。
 
 また、筑豊線も当時は様々な系統が存在していたようでありまして、日田彦山線を通ります快速「日田」がわざわざ小倉駅経由で運行されておりましたし、50系客車による客車列車も存在していましたので原田駅発の列車やいまはなき上山田線の上山田駅発の列車もあった訳ですので、なおさらそう思う所でもあります。尚、折尾駅は「鷹見口」が存在しておりませんでしたので、筑豊線~鹿児島線直通は折尾駅は停車しない形であった事も見ていてわかるのではないかと思います。
 
 
 そして、夜行普通列車として運行されておりました「ながさき」は翌昭和59年のダイヤ改正で廃止されてしまいました。ご紹介しましたように、夜通しで運行されます普通列車でもありましたので、当時「大垣夜行」を含めまして全国的にも数少ない夜行普通列車でもあった事や、山陰線の京都~出雲市間の「山陰」や、紀勢線の天王寺~新宮間の「はやたま」を含めまして愛称がつく事から珍しい形態でもありましたが、廃止となってしまった事はやはり残念かなと思う所でもあります。
 
 
 今回は、夜行普通列車「ながさき」の時刻を紐解いて、当時の運行形態に関しましても併せましてご紹介しておりましたが、正直利用してみたかったなと言うのが本音ではあります。以前も述べましたがこの昭和58年と言いますと、私が小学生になったばかりでもありまして、この年には筑肥線電化開業などもあった年でもあった訳ですが、そんな時まで長崎線・佐世保線で気動車列車・客車列車が運行されていた訳ですので、時代を感じさせられる所でもあります。ご覧の皆様も、本文・画像だけではわかりにくい所ではありますが、実際にこの列車が運行されていた事を存じていただければとも思っております。
 
(注)時刻表画像に関しましては、わかりにくい場合は画像をクリックしてください。また、今回の参考資料は他の方々のHP・ブログ・動画を参考にしております。