2017年から始めた"いまさらですが"シリーズ、第10回となりました
今作では、前作よりスタートした"2024北陸応援"企画を兼ね、歴史ある北陸の都を歩き、今更ながら超有名なスポットを訪ねたいと思います。
前作での終着駅だった、石川県金沢市です
金沢を訪ねた観光客ほとんどが行く、有名な"3大名所"といえば、アソコとアソコ、そしてアノ市場だと思うんですがw、今作で全て行きます。併せて、今人気上昇中のエリアも訪ねます。ではスタートします
冒頭から↑わかりにくい写真ですが、金沢市街の中心、香林坊交差点です
地元の方々にとっては金沢一の繁華街、そして観光客も大抵は歩くエリアで、バス路線の多くもここを経由するため、知名度抜群です。しかし意外と、なぜ"香林坊"という地名なのか?の由来は有名ではありません。
由来は・
香林坊交差点の片隅に、↑古い橋の親柱が残されています。
直接の由来は、当地に架かっていた"香林坊橋"からですが、その"香林坊"とは?というと、越前の僧・香林が当地で還俗し、薬種商の家へ入った事に発するとの事です
古くから古街道沿いに位置する事もあり、江戸期より繁華街として栄えてきた香林坊です
大手資本の商業ビルから老舗の商店まで、大小様々なお店が楽しめる香林坊、少々雑多な感じもするのが又魅力です
そんな香林坊近くは、金沢市きっての歴史エリアでもあります
↑地図の通り、金沢の超名所・兼六園&金沢城がここから徒歩圏です。繁華街のすぐ隣が緑多い文化ゾーンという、まさに金沢の魅力が凝縮されている香林坊周辺です^
早速、金沢城へ向け歩きます
香林坊の東側は、金沢城と兼六園へ続く、広々とした緑地です。全国的にみても羨ましいような都市環境ですが、その中に大きな洋館が2つ建っています。
一つは↑、旧制金沢四高の校舎(※国重文)
1889(明治22)年建造、金沢大学の前身です
そして、より金沢城へ近づくと、もう一つ↑大きな洋館が
旧石川県庁です(※国有形文化財)
1924(大正13)年竣工、石川県初の鉄筋コンクリート造だそうです。2003年、県庁の移転新築により『しいのき迎賓館』に改装。内部を貸会議室/ギャラリー、カフェ等にして開放しています
で、なぜ"しいのき"と云うのかは・
玄関前に、↑シイの大木が植わっています。
"堂型のシイノキ"といい、江戸期までこの辺りも金沢城だった当時、当地に堂型の的場があり、その当時からの木なので樹齢300年とも言われます。国天然記念物指定です
旧県庁のむこうには、↑金沢城跡が見えていますが、旧県庁でもう一つネタがあります。それは・
裏側へ廻ってみて驚き、↑なんと裏側半分だけ近代的に改築、いわば、"リバーシブル洋館"(?)になっています
次は、金沢城跡へ
旧県庁側から行くと、↑真っすぐなお堀に突き当ります
"いもり堀"というんですが、↑のお堀は復元で、明治期に一旦埋立てられ、戦前は旧軍用地、戦後はテニスコート(!)だったそうです。近年復元工事が行われ、2010年に築城当時の姿が甦ったとの事
いもり堀の向こう側の石垣、↑元日の能登地震で一部が崩落していました。僕が行った時も同城では修復工事が行われており、一部の園路が地震被害のため通行止になっていました。
↑金沢城&兼六園の敷地は、金沢市街の中心にドーンと立地します。金沢を旅で訪ねたら、否が応でも行く事になる場所です^
旧県庁から一番近い入口、玉泉院丸口から城跡の中へ
『金沢城公園』として、国史跡に指定されています。天守は現存しませんが、近年本格的整備が施され、大変美しい城跡となりました。どんな感じなのか、これから廻ります
城跡は、小高い丘の上(※兼六園も)にありますが、金沢市街を流れる2つの川、犀川と浅野川に挟まれた台地に位置します
同城は石垣の組みかたが多様で、↑現地解説板には"石垣の博物館とも呼ばれる"とありました
そんな石垣を観察しながら、坂を登ります
登るにつれ、先程の入口名の由来、↑玉泉院丸庭園が見下ろせます(※庭園内へ入るには有料です)
登りきると、↑広場に出ます。
二の丸広場です
二の丸広場には、復元事業のハイライト、↑五十軒長屋が長々と建っています。同城HPによると"倉庫として使われた"との事ですが、それにしては巨大です^
五十軒長屋の前には↑休憩所があり、城跡の概要に関するミニ展示もありました
ここで、金沢城の概要を簡単に
金沢城(※一名:尾山城)。ご存じ、"加賀百万石"といわれ、日本有数の雄藩だった、前田利家を祖とする加賀藩の居城でした
古くは加賀一向一揆での本願寺側拠点だった御坊を淵源とし、後に城郭化。1583(天正11)年、利家が入城。前田氏による加賀支配が始まりました
築城時あった天守は、1602年に早々と焼失。代用として本丸内に『三階櫓』が建てられましたが、それも後の大火で焼失。金沢城は江戸期、何度も火災に見舞われていて、初期と末期では大きく姿を変えたといわれます。
明治維新後は、全国多くの城と同様に旧陸軍管轄となります。存城扱いでしたが、明治期に又もや起きた火災により残っていた建造物の大半が惜しくも焼失
戦後は、城内に国立金沢大学のキャンパスが出来ます
その金沢大が1995(平成7)年に城外へ移転。同年以降、現在の姿へと本格的整備や復元が行われる事となります。隣接する兼六園との相乗効果もあり、整備後は全国城跡の中でもひときわ注目される存在になっています
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引続き、金沢城跡を歩きます
五十軒長屋の近くにもう1棟、長い建物が。
これは・
↑三十軒長屋です。
明治火災での焼失を免れた貴重な"本物"で、国重文に指定されています。1858(安政5)年築、櫓の一つです
本丸の跡は、都心とは思えない程深い森になっています
同城跡には植物約550種、動物は約1500種いるとの事で(同城HPによる)、"緑の心臓"とも言われるそうです
(※動物の種類が多いのは、主に昆虫が多様に生息)
本丸なので他の曲輪より一段高く、五十軒長屋等が見渡せます
本丸跡から、三の丸広場へ下りていきますが、その途中に見えるのが・
↑鶴丸倉庫です(※国重文)
武具の蔵だったそうです。この建物も、度重なった火災から奇跡的に残り、明治期に旧陸軍管轄になってからも倉庫として使われたとの事
前述の通り"石垣博物館"ともいわれる金沢城跡、↑施工時に各地から来た石工チームが残した刻印が、あちこち見られます
他城ではよく、"ここに刻印があります!"とかの解説板があったりしますが、金沢城はあまりにも数が多いためか、刻印に関しての案内はなく、しかし多数あるので簡単に見つけられます
三の丸広場に出ました。ここに↑大きな休憩所があります
その休憩所前に、↑石組の見本が
時代の流れ等で、粗い組み方から南米インカ文明の遺跡のような隙間が無い組み方まで、3種類ありました
三の丸広場の北側は、↑同城跡で一番広々としています
元々は重臣の屋敷や警備詰所があったそうです
先程の、五十軒長屋の裏側にあたります
五十軒長屋の角には、↑菱櫓です(※復元)
長屋から続く白壁と、下の石垣と濠が大変美しいです^
同城で最も高い櫓です
三の丸広場の北側には、↑大きな『河北門』が(※復元)
そして・
その南側には、↑橋爪門(※復元)
この2門&これから行く石川門が、"金沢城三御門"と呼ばれていたそうです
ではラストに、同城で一番有名ともいえる場所、『石川門』へ
金沢城の東側に位置する、↑石川門です(※国重文)
1788(天明8)年築、これまで見てきた三十軒長屋・鶴丸倉庫と共に、度重なる大火を生き残ってきた貴重な史跡です
ただ意外にも、存城当時の同門は"裏門扱い"だったそうで、先程の河北門が正門相当との事
石川門から、金沢城跡を出ます
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石川門を出て、↑隣接する兼六園とを結ぶ陸橋を渡ります(※前述の通り丘の上なので、下を一般道が走っている)
次は、兼六園へ
ご存じ、岡山後楽園/水戸偕楽園と並び称される、日本三名園です(※国特別名勝)
チケット売場は↑長蛇の列
僕たしか2回目のはずなんですが、前回いつ来たかも覚えてない程記憶がなく、実質初めてみたいなもんですw
桂坂口から入ると早速見えてくるのが、↑雪吊りを施された松、そして大きな池。霞ヶ池です。その片隅に、同園の"シンボル"ともいえる物が早速姿を現します。
それは・↓
大きく開脚した足を広げたような、↑徽軫灯籠(ことじとうろう)です
金沢市内では兼六園への道路標識のアイコンにも使われている、まさに同園を代表する文物です
それにしても↑の光景、"ザ・兼六園"です^
同園の松は、滋賀県・琵琶湖畔の唐崎から種子を取り寄せ育てたものです。加賀藩/前田家代々の庭園だった兼六園、全国から名景の粋を集めて珠玉の庭園を造り上げました
約11haの広さを誇る同園、明治維新後早々に一般公開されましたが、なんと1976年までは一般の公園として24時間開放されていたそうです(驚)
無料の頃は園内の傷みが激しく、徽軫灯籠も損傷していたとの事で、有料化して入場を制限する事にし、文化財保護へとシフトさせたそうです
ちなみに"兼六園"の名は、名園と呼ぶにふさわしい6つの要件を具備している、という事に由来するそうです
徽軫灯籠周辺は常に混雑していますが、少し外れるとゆっくり散策できるエリアもあります
園の東端からは、↑市街地が見下ろせます
大きな銅像が鎮座する↑広場。日本武尊像との事で、『明治紀念之標』という名です。西南戦争の慰霊として1880(明治13)年に建立され、日本最初の銅像といわれています
園内には数ヵ所↑茶屋等の休憩所があり、名物あんころもち等が味わえます
園の南端にある、↑成巽閣(※国重文)。前田家13代、斎泰の母堂の隠居所として建てられ、幕末の武家家屋として高い評価をうけているとの事。兼六園とは別管理で、入場料も別となっています
梅園もあるんですが、行ったのが"梅には遅く、桜には早すぎ"という時季だったので、ちょっと残念でございました^
同園には、霞ヶ池のほか、もう一つ池があります
瓢池(ひさごいけ)、同園の造園が始まった地点と言われます。
この池に、独特の石塔が建ちます↓
"海石塔"といい、同園HPによれば、加藤清正が朝鮮出兵の際に持ち帰ってきた石を贈られた豊臣秀吉が、再度前田利家へ贈ったものだという説があるそうです。著名3武将が関与した石塔とは・w
同園最大級の樹木・↑根上松(ねあがりのまつ)
見事な枝ぶり、徽軫灯籠と共に、同園のシンボルとして知られます。
これも成巽閣と同じく前田斎泰の手になるもので、若木を植える際に土を盛り上げて植え、成長後に盛土を取除いて根を露出されたとの事です
まだまだ有名スポットはあるんですが、あとは是非実際に訪れてみて下さい。そろそろあとにします
香林坊に一番近い、真弓坂口から市街地へ戻ります
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場面かわって・
香林坊から約1km北、↑武蔵交差点です
ここから西へ行けば金沢駅、南には香林坊という、金沢市中心の道路要衝です。
そんな、武蔵交差点近くにあるのが・
これまた有名な、近江町市場です
観光客は、ここに寄らないと金沢に来た気がしないという場所ですw^
市場内には、北陸の海の幸が並びます
大阪の黒門市場と似た感じもします
1本の商店街ではなく、縦横に数本の街路が延び、約200軒のお店があるそうです。昔、滋賀県の近江商人が進出した地である事から、この名だとの事です
水産物購入は勿論、海鮮を味わえる食堂も多数あり、現在はどちらかというと観光中心になっていますが、地元の方々が買い物している雑貨店とかもあり、まさに街ブラを楽しめる所です^
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近江町市場を出て、武蔵交差点から東へ、国道159号を歩きます。この道、古くからの街道だったみたいで、所々に古い建物が
ふつ~のビルやマンションの合間に、ポコッポコッと古い商店や民家が突然挟まっていて、体系的な街並でないぶん、かえって歴史の経過を感じさせるような道路でした^
そして、この道を東へしばらく進むと~
突き当って、↑浅野川の橋を渡ります
この橋の北側は・
香林坊とは全然違う雰囲気、古い街並が保存された一角となります。
『ひがし茶屋街』です
名の通り、かつての芸妓置屋街の建物が多く現存し、金沢市の観光スポット中でも人気急上昇中の場所です。SNS映えする街並なので、若者も多く訪れます
(※国重伝建造物保存地区)
文化財として保存展示している建物もあるほか、店舗に改装されている町家も多く、金沢へ来たらここも訪問必須でしょう^
現在も数軒のお茶屋が営業しているとの事で、新潟古町等と同様に、北国の芸妓文化が守られています
なお、ここと対をなす"にし茶屋街"が犀川の西側にあり、金沢の街が古来より繁栄を誇ってきた事を伝えています
茶屋街の南側を流れる、浅野川の河川敷で休憩
立山連峰に源を発し、日本海へ注ぎます。前作で乗った北鉄浅野川線は、この川の下流に沿う事から線名となりました(※前作で書き忘れたので追加^)
この日、朝から時雨が降ったり止んだりだったんですが、夕方になって青空が覗いてきました
ひがし茶屋街、駅から徒歩ではチト遠いので、バスが足となります。北鉄/JRバスの2社が来ますが、JRバスのみICカード使えます(※2024現在)
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金沢駅に戻ってきました
前作でもご覧頂きましたが、↑同駅東口おなじみの巨大モニュメント。後日調べるとこれ、"鼓門"(つづみもん)といい、金沢伝統芸能の能楽をモチーフに、雨雪が多い金沢を訪れる人々のため、駅前を巨大な屋根で覆うという"おもてなし"の気持ちを込めたものだそうです
金沢駅のこぼれ話を一つ
昭和期は"不愛想の代名詞"だった、旧国鉄の接客。
しかし金沢駅では国鉄時代から、切符売場や改札で駅員さんが「ありがとう」と気軽に声掛けする光景があったとの事で、それがJR転換直後に全国でよくみられた、改札で乗客に大声で挨拶する試みの手本になったとも言われます。
街も美しく、人の心も美しい、金沢からの"いまさらですが"でした
北陸応援2024シリーズ、前作&今作で"第1ステージ"(?)とし、一旦これで区切りとします。
次作からしばらく一般作を挟みますが、北陸は今年いっぱい"跨ぎシリーズ"とするので、夏辺りになったら第二弾で訪ねたいと計画しています。その際には復興状況をみながら、能登へも入れたらと思っております^