いやぁ、参りましたね。辞任騒動で出るわ出るわの舞台裏。知らんかったヨ。何を目指して、どこを向いて政治をやっていたんだ、あのバカワカツという男は。

 

え、それが鉄道模型とどう関係するのかって? つながるっちゃ、つながるけど。まぁ鉄道の話だし。リニアがああなるのもしょうが無いかなとは思わされてきたんだなと。裏を知らない状況だとね。川勝は連合支援の民主党に担がれた元大学教授だったてこともよく知らんかったし。知らんがな、そんな他所の県の話。それで川勝自身はオックスフォード出を鼻にかけた選民思考の人間でものすごープライド高いらしいとか。俺の好かんタイプの人間筆頭だ。

 

で、坂本龍一&大貫妙子の「夏色の服」をもじって「秋色の服」というハンドルにしている私としては、坂本と川勝の共通点が気になります。どうも川勝は毛沢東大好きらしくて、S23年生まれ。坂本はんはS27年生まれ、ちょい若いが戦後世代。坂本龍一の「千のナイフ」という知ってる人は知ってる名曲がありまして、中学生の頃からずっとこの曲コピーしてきました。渡辺香津美のギターの所が、ちょっと難しすぎるんですよ(私は鍵盤楽器で、ギター弾けないけど持ってはいるってだけなんで)。ソロ部分をどう展開するのかって、聞かせどころなんですよ。YouTubeでいろんな人の動画見るけど。後年に坂本自身のソロピアノのライブで、自動演奏を録音しながら、それに合わせて発展させていくって方法が定番になっていってるような。でも、古いファンとしてはアルマーニのジャケット着て風呂から出てきてるみたいな変なジャケ写のデビューLPの曲が印象ですよ。あの曲はボコーダーで坂本がごにょごにょ言ってるんですが、あれは本当に知る人ぞ知る、毛沢東の演説から来てる詩なんですよ。坂本は中国語でボコーダー動かしている。

 

この辺の事情を洞察するのに、やっぱりあの時代を考えないといかん。坂本よりほんの少し先に亡くなっちゃった高橋幸宏。彼にとって中国はフェリーにの映画なんです。赤い表紙の毛沢東語録の翻訳本、これがパリで革命やってた学生のそれこそバイブルだった。だから、ファッション寄りの幸宏氏が人民服スタイルを推して、細野の「外人の中国と日本を混同してるイメージ逆に使っちゃえ」という方便(これがイエローマジックということの意味)に見事に合致していったという流れだったわけです。

 

当の坂本センセも後年は毛沢東の詩を読み上げたことに恥ずかしさがあるのか、あのイントロ部分はライブ演奏やYMOでの再レコーディングでもカットされた黒歴史だったかも。でも、まぁ大島映画をはじめ、彼が映画俳優として演じた日本人は常に大日本帝国の象徴たる、虚勢を張った青年将校で、自由と民主の思想に啓蒙されるべき哀れな存在だった。

 

やや世代が上だけど、川勝もこうした昭和の思潮というものにどっぷりの人物だったのかと。川勝が裏というか表でかなり中国と蜜月だったのも私は全く知らんかった。そして、そこに実体を与えていたのが、静岡西部経済界のドン、某軽自動車メーカーの前会長さん。あーあ。重慶にでっかい工場持ってるし、大井川の水を懸念する理由はあるし、さらには鉄道事業を国家戦略に据える中国の意向とも見事に合致する。この人の好敵手がJR東海の故葛西氏で、要は中国にとっては新幹線技術輸出を巡って戦った相手だったと。繋がり過ぎるよ。怖いくらい。全部、YouTubeの動画で見た話だけどね。

 

 

何か不自然な辞め方だ。もし、自然環境の保全や水資源の確保が県民との約束の1丁目1番地ならば、工事延期したとしても、その後の工事進捗経過の監視・監督の方が重要なんじゃないだろうか。このタイミングで区切りがついたという認識に至っていることが、そもそもの目的は別な所にあったということを露呈させているんじゃないだろうか。鈴木さん、選挙で応援ありがとうございました。リニア遅らせましたから、この辺で身を引きたいと思います。そんな挨拶を浜松のホテルの料亭でやったらしい。もう、こういう方々はとっとと身を引いて頂きたい。

 

万博での大阪がひどいって話は聞いてたけど、東海も負けず劣らずで、その象徴が川勝リニア問題に垣間見えていたってことだったみたい。

 

例の感染症騒ぎ、これで私の認識もだいぶ変わった。グローバリゼーションってのが死んだ。何か外国に行ったり、外国人と仲良くすることで何かが生まれるってのには実は落とし穴が大きいんじゃないだろうか。そんな風に思えるようになると、もう、坂本龍一なんて人も結構滑稽だって感じがしてくる。

 

 

ちょっと、だいぶ収拾つかなくなっては来ている自覚はしてますが、最後うっちゃって逃げます。静岡が世界に誇る産業のもう一つに、プラモデルがあります。「バリ」という言葉があります。アリイ(マイクロエース)の鉄道プラモで散々お世話になってるやつです。このバリを英語でBurrというのってご存知でした? 私はつい最近知りました。もしかしたら、プラモを教えられたのって、戦後にアメリカ人からなのか? という疑問が少しあります。

 

ついでにどさっと色々書いときますが、原信太郎って人の本買いました。模型コレクション100両乗ってるやつです。意外だったのが、芦屋の坊ちゃんだったってこと。何で博物館は横浜に作ったんだろう。横浜は篠原模型があった場所で、ここは要するに米軍の居留地だったわけで、彼ら相手の商売をやってた一つがシノハラさんだったと。横浜の名物にジャズってのがありますが、これも要するに米軍相手の商売だった。同じです。ついでに言っちゃえば、私がそもそも特定テーマのブログを作ったのは某プロ野球チームの応援のやつと、ジャズ喫茶の訪問記、そんで、今回の鉄道模型。米国というか米軍ってキーワードで一致する。野球はね、ちょっと早いんだけれど。沢村、スタルヒンの時代からあるわけで。うーん。もうちょい勉強必要ですね。だけど、田宮模型の設立は1946年なので、鉄道模型と同じように駐留米兵の余暇品目として作られていったというストーリーなのかなぁと。もしかしたらね。だからBurrが日本人にはバリって聞こえた、てか、そう表記せざるを得なかったのかなと。バーじゃわけわからんので。天賞堂が銀座にあったのも、GHQが近くにあったからで、こんなの作れないかって時計屋に持ち込んだってのが始まりなわけで。篠原はAthern向けに線路作るようになっていったと。車両製作では中村精密ってメーカーがあると。

 

私はDCC-EX++とか言いはじめたけど、自分としては海外ではの「でわの神」じゃないつもりです。金使いたくないから、必死こいてるだけで。Think globally, act locallyなんて言うつもりもないです。敢えて言えば、Think neutrally, act poorlyです。