雨降りしきるホームに滑り込む中央線の特別快速。最初、高尾駅かと思ったのですが、国分寺駅ですって。今からじゃ想像がつかないほど、国分寺駅は化けましたね。撮影は昭和54年とのことですが、この頃の特快は国分寺は通過してました(特快の国分寺停車は民営化後の昭和63年)。

それにしても、特快のヘッドマークが懐かしく感じるのと同時に、やっぱり「こうでなくちゃね」と再認識させられます。今のE233系は、放送で案内されるけど、到着まで快速なんだか中央特快なんだか青梅特快なんだか判らないのが現状。行く先表示も快速なんだか中央特快なんだか青梅特快なんだか直前まで判別がムズい。「国鉄時代のヘッドマークを」とは言わないまでも、晩年の201系のような電照式でも構わないので、外面から快速なんだか中央特快なんだか青梅特快なんだかをアピールして欲しいですね。

 

中央線の特快は大阪の新快速同様、今は割と早い時間帯から運行されていますが(東京駅基準で6時11分発)、昭和国鉄時代は日中しか設定されていませんでした。

平日の場合、画像の時代と照らし合わせると、東京駅基準で9時59分発が特快の始発です。そして最終列車が16時02分で全て高尾までの列車。この頃の青梅線には定期で特快は設定されておらず、休日のみの設定でした。新快速は途中で走る線路が複々線の内側線(電車線)から外側線(列車線)に切り替えた事で更なる増発とスピードアップが実現しましたが、中央線の特快は国鉄時代も今も変わっていません。朝のラッシュ時には2分10秒という運転間隔だったので、朝に特快を設定しても前を走る列車に詰まってしまい、尚且つ、追い抜き施設を持った駅が限りなく少ないので、特快の設定が出来ないというのが正直なところ。快速なんか、中野⇔高尾間が各駅停車になるんだから、快速も緩行線を走らせて、緩行線のきいろいでんしゃは中野止まりにして、急行線(※)に余力を設けて特快を走らせたら良かったのにね。中野駅には急行線⇔緩行線の渡り線は無いけど、(ポイントの)敷設はそんなにムズいことではないでしょう。東京にも本社管轄と東京西鉄道管理局管轄の縄張りがあったのかな?

 

写っている101系には冷房が搭載されていますが、当初はほぼほぼ特快専用。そもそも特別快速を設定したのも、冷房車を導入したのも、事の発端はライバルと目された京王線の特急でした。それだけ京王線の特急に危機感を募らせたんでしょうね。

 

昭和54年といえば、201系の試作車が登場した年ですが、量産されるまであと2年待たなければなりません。ちらほら103系も混じっていましたが、この頃の中央線快速は101系の天下でした。

 

※・・JR東日本における中央線快速の正式な呼称は「中央急行線」という

 

 

【画像提供】

ヤ様

【参考文献・引用】

国鉄監修・交通公社の時刻表 1979年12月号 (日本交通公社 刊)

MY LINE東京時刻表2024年版 (交通新聞社 刊)

ウィキペディア(中央線快速)