僕の通った大学は1・2年の教養課程のキャンパスと3・4年の専門課程のキャンパスが別のところにあった。そんなこともあり所属していた鉄道研究会(鉄研)の活動は2年生が中核を担っていた。部室も教養キャンパスにあった。

鉄研の主要行事は春秋の大学祭での鉄道模型レイアウト(16番)の展示走行と、夏の合宿だった。合宿の行き先を決めるのは2年生である。僕らが2年生のときに企画した夏合宿の行き先は、初日が身延線の富士電車区、二日目が日本車輌豊川蕨製作所、三日目が近鉄富吉検車区であった。我ながらいいバランスで選んだと今でも思っている。

 

その初日の富士電車区は現地集合であった。僕は何人かの同級生と共に前夜東京から大垣夜行に乗り、深夜の富士駅で下車。そのまま駅にとどまり、深夜に通るEF58の荷物列車などをバルブ撮影した。朝は朝で動き始めた身延線の旧型国電を富士駅や竪堀駅で撮った。それでもまだ集合まで時間があったので、興津川橋梁まで足を伸ばし、身延線からリタイアした旧型国電の疎開留置のための回送列車を撮影したりもした。

↓EF58 142が牽く荷物列車(以下いずれも1981.7.23撮影。使用カメラはモノクロがニコンFE、カラー(ネガ)がヤシカマート124G)

↓夜が明けるとクモハユニ44を先頭にした列車が入線してきた。

↓竪堀駅に行ってみるも富士山を拝むことはできず、やってきたのは115系2000番台だった。

↓疎開留置のための回送は長大編成だった。

そうして時間をつぶして駆けつけた富士電車区の正門で一同集合。事務所に挨拶を兼ね表敬し、案内の職員の先導で電車区内を見て回った。当時身延線は旧型国電の最末期で、既にワインレッド色の115系2000番台車が入り始めていた。僕らの狙いはもちろん旧型国電だったが、案内の職員氏は新鋭115系の説明に力を込めていた。

ひととおり見学を終えた頃、案内してくれた職員氏が何かリクエストはありますか?と聞いてきた。そこで僕らは恐る恐るクモハユニ44のパンタグラフをあげてもらうことはできますか?と聞いた。すると、その職員氏はヒョイと運転室に乗り込むや否やパンタを上げてくれた。感謝感激で激写したのは言うまでもない。しかし、あれだけ新鋭車両の説明を熱心にしてくれた職員氏の手前、それだけでは申し訳ないと思い、厚かましくもクモユニ143もお願いしたところ待ってましたとばかりにパンタを上げてくれた。

そんなこんなですっかり満足した僕らは丁重にお礼の言葉を述べつつ電車区を辞したのであった。

結局身延線の旧型国電はアコモ改造の62系を除き、僕らが訪問した翌月末に終焉を迎えた。

↓以下はいずれも富士電車区にて。

↓戦前製旧型国電に交じって、アコモ改造の62系、EF15、115系2000番台が揃う電車区