人気の場所に撮り鉄が集中して密になって写真を撮ろうとしている場面がたまに報道されたりするが、これに対し「みんなと同じ写真を撮ってどうするんだ」というコメントが付されることがある。部外者ならともかく鉄道趣味関係と思しき者がそういうコメントをすることもあるようだが、僕はこれほどピントはずれの言い方はないと以前から思っている。

結論から言うと、現場にいる一人ひとりの撮り鉄はみんなと同じ写真を撮ろうというつもりなどなく、自分が撮りたいと思って出向いたのが多くの撮り鉄が集まる場所だったというだけのことである。

いい写真を目にして自分も同じ場所で撮りたいと思うことはごく自然な欲求である。はるか昔から芸術は模倣から始まるというではないか。鉄道写真が芸術かどうかはさておくとして、創作活動の一種であるからして、どこでどんな写真を撮るかは全くもって本人の自由である。それを「みんなと同じ写真を撮ってどうするんだ」と評する人の思考回路が僕にはわからない。

↑「みんなと同じ写真を撮ってどうするんだ」との戯言を全く寄せ付けないのがお召列車。上は1982年5月に栃木県で行われた植樹祭のときのもの。

↓下は1983年10月に群馬県で行われた国民体育大会のときのもの。ただし、待っている列車はお召列車ではなく、原宿への回送列車。

ところが、最近のSNSなどを見ていると、そういう状況をむしろ楽しみにして出撃している若い撮り鉄もいるのではないかという気がしてきた。あのような喧騒の中に身を置くことに喜びを感じるという感覚は僕にはないが、集結した者どうし集合して記念撮影をしているところなどをみると、あながち間違っているとはいえないのではないかと思う。そうなるともう「みんなと同じ写真を撮ってどうするんだ」どころか、「みんなと同じ写真を撮りたくて出かける」ということになり、何が何だかわからなくなる。

いずれにしろ、そうしたい者は出かければよいし、そういう雰囲気が嫌いな者は出かけなければいいというだけのことである。せいぜい地元地域に迷惑をかけないようにとだけは言っておきたい。

↓上越新幹線開業を目前にして、去り行く特急列車に群がるチビ鉄。このうちどれほどの者が今でも鉄チャンを続けているのだろうか…

↓三川の発車を狙う鉄チャン。今の感覚では全然密ではないが、当時(1999.4)としては結構密といえる状態。