今更ながらではあるが、東京という街はザックリいうと三つのエリアに分かれる。東から順に、下町・山の手・多摩といったところか。東京もんは意外と行動範囲が狭く、馴染みのないエリアもたくさんある。僕などは幼い頃から東京の南西エリアに縁があったので、山の手線の内側は別として新宿〜恵比寿から放射状に伸びるエリア以外にはほとんど足を踏み入れたことがない。

↓東急8000系(多摩川園ー新丸子にて1983年11月撮影)

↓小田急2200形(小田急永山ー黒川にて1981年6月撮影)

↓京王5000系(高尾ー高尾山口にて1983年10月撮影)

そういえば大学生の頃、一部の学鉄連会員の間で私鉄についての「時計回りの法則」ということが言われていた。どういうものかというと、東海道線を起点に、東急→小田急→京王帝都→西武→東武→京成の順にオシャレ度が下がっていくというものである。京急がないではないかと言われそうだが、京急を東急の上に持ってくるわけにはいかないし、かといって京成よりは上だろうから、敢えて除外しているとのこと。

この法則、殊に(当時の)車両デザインに関してはストンと腑に落ちるものがあった。まだステンレスカーが米国バッド社のライセンス許諾が必要とされていた時代は東急の車両は輝いていたし、小田急のロマンスカーは憧れの的だった。郊外の住宅地についても田園調布や成城学園あたりを頂点としたオシャレ度を頭に浮かべると、さもありなんという感じがした。

↓西武4000系(秩父鉄道武州中川ー武州日野にて1999年11月撮影)

↓東武8000系(下小代ー板荷にて1988年11月撮影)

人間というもの、自分の住んでいるところが一番なので、他のエリア、特に未知のエリアはディスりがちである。うん十年前のこと、常磐線では通勤形4扉ロングシート車でも日暮里を過ぎるとワンカップを飲み始めるサラリーマンが普通にいるらしい、などと職場で雑談していたら、新松戸に住む上司が日経新聞の購読者率が最も高いのは千代田線であるので、君の言っていることは間違っていると言われたことがある。もっともその根拠が東スポの記事というのには笑いを禁じ得なかったが。

また、僕の母親など中野と西船橋を結ぶ営団地下鉄東西線が開通せんとする頃、これからは日本橋の三越本店に下町の人が割烹着・下駄履きのまま来店して、雰囲気が損なわれるのはイヤだと真顔で言っていた。(昭和40年代の話ですので、念のため。)

僕が今通勤で使っている副都心線も新宿三丁目や渋谷を境に明らかに空気が変わる(注・あくまで僕にとっては、です)。帰宅時に新宿三丁目で降りようとすると、西に向かう客が降車客がいるにもかかわらず突っ込んできて、遠距離乗車での着席への執念を感じる。いつぞやは横浜での飲み会の帰路寝過ごして池袋まで行ってしまったことがある。その際空気の変化を脳が感じ取って目が覚めたのは、ドアが閉まって新宿三丁目を発車した直後だった。おかげで、あやうく飯能だったか森林公園まで行かずにすんだ。

半蔵門線の永田町駅で、次の電車は東武の電車ですとか東急の電車ですと表示されるのも、そういうことだと思っている。時計回りの法則は他愛のないものだと思っていたが、実は関係者の間では今でも密かに支持されているのかもしれない。

↓京成AE形(京成上野ー日暮里にて1984年3月撮影)

↓京急1000系(京急川崎ー六郷土手にて1977年4月撮影)