国鉄時代は不便だったのに民営化して良くなったという意見をよく聞く。
それに対しての反論。
今回のロジックはこの考えに基く。
1.人は便利になる事には鈍感
2.人は不便になった方には敏感
いま当たり前のように使っているサービスもそれがない時代の人はその存在を知らないので不便とは思わない。
例えば「。☆&?p(!」という物があり、未来の人はこれがないと生活できない。でも今の僕らは「。☆&?p(!」がどんな物か、何に使うのか知らないので、それがないからと言って想像を絶する困難を感じたりしない。
それを国鉄の評価に当てはめると、
「新幹線ができる前は、在来線特急「こだま」で6時間半もかかっていた、ありえない」と今の人は言うけれど、新幹線がなかった時代の人がそれを不便と思っていはいなかったとわかる。
その時代の生活レベルに合致している限り、不便とは思わない。
たから昔の寝台特急には各席のコンセントやWI-FIが無かったと言っても、そもそもスマホを使わない時代だったので必要とは思わなかった。
まさかブルトレ全盛期の昭和50年代前半に多くの家にWI-FIが完備されてたと思ってないですね?
逆に不便になった事については実体験があるから不便と感じる。
例えばいくら新幹線が早くなったからと言って、急行「銀河」を使っていた人にとってなくなるのは不便以外のなにものでもない。
これまでできた事ができなくなったので、無くなったからと言って、人の記憶から消える訳ではない。
しかし、生まれた時から銀河が走っていない時代の人にとっては「無いのが当たり前」なので不便とは思わないのだろう。
国鉄時代は便利だったか論争でしばしば意見が異なる原因はここだろう。
国鉄を正しく評価するには、その時代背景や文化程度と比べてどうだったかという観点を忘れてはならない。