まるで自宅のような安心感 | 旅一郎のブログ

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国鉄(日本国有鉄道)が、最後の全盛期を迎えた昭和47年ー53年までをテーマにした、汽車旅のブログです。

旧型客車亡き後、日本の鉄道旅行は本当につまらなくなりました。そのため海外ネタも載せています。

当時の雰囲気を伝えるものは鉄道にかかわらずアップします


今回の旅行の主役。

浜坂発豊岡行き。京都までの最終接続列車です。

まだ19時前なのに浜坂駅は最終列車のような趣。

車両はキハ47のトップナンバーでした。

昭和52年、全国の非電化区間は雑多な気動車の寄せ集めでなんとか輸送を確保していました。

(それが楽しかったんですが)

その状況を打破しようと全国に配置されたのがキハ40形式。両運転台のキハ40、片開きドアが両車端にあるキハ48はいずれも急行にも使えそうな車内設備でした。


キハ47は都市近郊を意識した両開き扉を少し中央に寄せ、通勤にも使える設計としたもので、当時非電化だった福知山線大阪口、山陰本線京都口に投入されました。


小学生の頃、梅小路蒸気機関車館に行くのに丹羽口まで山陰本線に乗りましたが旧客でなく、キハ47だったのでがっかりした思い出があります。

当時は半自動ドアで小学生に重かった。

中学生になって本格的に旧客や客レを追いかけるようになった時は、列車番号を確認して気動車は避けるようにしていました。


それでも山崎から山陰本線にいくと浜田行き833レは2分前接続で間に合わない。そのあとの321レは客車ながら園部止まりなので先がない。

結局、6:42発福知山行き乗らざるを得ない状況が続きました。


その列車がキハ47の4両編成。

短くて混む、エンジンがうるさいなど積極的に乗りたい列車ではありませんでした。

さて。後部貸切になりました。乗客は前に二人、後ろ僕だけ。最高の状態です。


もう弁当を買える場所がないことは分かっていたので岡山から運んできた「お祭り弁当」(1,480円)を開けます。

18:45浜坂発車。窓を開けると今は使われなくなったホームの橋の方がよく見えます。

客レの時代はDD51がこの辺に止まっていました。長時間停車の時などキャブに入れてもらったりしたものです。

浜坂〜久谷〜餘部と山間を走ります。

この区間は旧客でもよく乗った。後部デッキから眺めた様子はいまも鮮明に覚えていて、タイなどでも脳内再生しています。

侘しい光。餘部駅。時刻は19:00になりました。

人の動きはありません。

鎧 19:04一人下車。

列車は坂を下り香住の灯りを目指して走ります。

香住高校にはまだ電気が灯っていました。

19:11 大きなカニに迎えられ香住駅に到着。

カニシーズンの今昼間は増結や増発されたカニカニエクスプレスで賑わいます。

その煽りで昼の普通列車もここからは混む。

でもこの時間は地元客が数名乗るだけでした。

我が2号車、キハ47-1にも客が付きました。

19:18 柴山。

このカーブした駅は山陰本線を代表する絵になる駅だと思います。

駅舎が簡素なものに変わってしまったのが残念。

19:22 佐津 下り浜坂行きと交換。

あちらは結構乗っていて全てのボックスが埋まっているように見えた。

19:32 竹野。

この駅は旧客の思い出と共にあります。

最後乗った532列車福知山行きは22:00にこの駅を出た。浜坂行き547列車も同時発車だった。

城崎までは10分と比較的長いのに途中信号所はない。竹野ー佐津には相谷信号所があるのに。


そういえば職場の人で昔、竹野から香住まで通っていた人がいて、「昔は豊岡から相谷行きのバスがあり、相谷からは香住行きのバスが接続していた」そうな。

地方の交通は鉄道だけでなくバスもボロボロになっているようです。

19:42 城崎到着。

ここから多くの人が乗り込みます。静寂な時間は終了しました。