昭和期に活躍していた東京の路面電車、"都電"
かつては銀座や渋谷等、都内くまなく路線網があり、庶民の足として親しまれましたが、他都市と同様、戦後の車社会進展によって道路から追い出されるような形で、次々と廃止されていきました。
しかし現在も、1路線のみ元気に走り続けています
ご存じ、都電荒川線(※愛称:東京さくらトラム)です
当別荘でまだ未登場だったので、今作でやってみます。
昨年、宇都宮で開業したLRTの作をupしましたが、再び路面電車が見直されている昨今、都電荒川線の存在も再度注目を集めつつあります
都内では昔から有名な"名物路線"ですが、Wo流にみていきます。昨秋、荒川車庫の公開イベント時の様子をご覧頂くのと、沿線最大の名所・飛鳥山公園にも行ってきました。ではスタートします
日暮里・舎人ライナーと都電荒川線が接続する、↑熊野前電停から始めます
舎人ライナーを降りて地上へ出るとすぐ、都電が元気に走っている姿を目の当たりに出来ます
早速、熊野前電停から都電に乗ります^
都交最古⇔最新の交通方式を直に乗換できる唯一の駅です
都電荒川線は、三ノ輪橋~早稲田間・約12km、大半が専用軌道になっています。この事が、都電で唯一存続出来た最大の理由です
荒川線は1930(昭和5)年全通、当初私鉄(※王子電気軌道)によって開業しましたが、先の大戦中に戦時統合により都営となりました。(※都電の沿革は、後程行く荒川車庫のところで)
2017年に『東京さくらトラム』という愛称も付けられましたが、そう呼ぶ人はあまり無いみたいで、今も"荒川線"や"都電"と呼ばれ、親しまれています
前述の通り、↑基本専用軌道なので、駅間は快適に走っていきます
車内は↑車種によって一部クロスになっている席もあり、鉄ちゃん大喜びなつくり^
ここで再度、↑路線図で概要をみておきます
都心の北側を、帽子を被せるように延びています
東の三ノ輪橋(※荒川区)から西の早稲田(※新宿区)まで、計30ヵ所の電停があります
そのうち他線と接続するのは、先程乗った熊野前(※舎人ライナー)のほか、↓の各駅です。
▽三ノ輪橋(※日比谷線)
▽町屋(※千代田線)
▽王子駅前(※京浜東北線/南北線)
▽新庚申塚(※三田線)
▽大塚駅前(※山手線)
▽東池袋四丁目(※有楽町線)
▽鬼子母神前(※副都心線)
・と、かなり多くの路線と乗継出来ますが、特に王子駅が主要な結節点となっています。又、東池袋四丁目電停から、池袋駅へ徒歩圏です
今乗っている熊野前→三ノ輪橋間で一番賑やかなのは、↑メトロ乗換の町屋電停付近
東の終点・三ノ輪橋到着。
同電停は降車/乗車ホームが別になっています。
終点少し手前の降車ホームで乗客を降ろし、↑その後終端部の乗車ホームへ
小じんまりとした、1線だけの起終点です。
都電終端部から、↑短いレトロな商店街が延びます。少し薄暗いのが又いい雰囲気を出しています^
商店街を抜けると、↑日光街道に出ます。
メトロの三ノ輪駅へは、ここから徒歩4~5分程かかります
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引続き折返します。
次は、この日イベントが行われていた荒川車庫前まで乗ります
時刻表はあって無いようなもので、頻発されているので、始発と終車以外は時刻を調べる必要ないと思います^
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荒川車庫前電停で下車。
この日やっていた"荒川線感謝祭"へ
午前中から、沢山の人が入口へ向かっています
車庫の裏口(?)から入場します
荒川区近辺のお店や企業の出店も
ご近所の縁(?)で↑JR尾久駅もブースを出していて、子供に大人気^
出店ブースを抜けると、↑いよいよ車庫の裏手から見学の行列に並びます。勿論普段は一般人立入不可のエリアです
順番がきました、車庫の中へ
正式名称は、『東京都交通局 荒川車両検修所』です。
これと、営業・運行管理/乗務員の差配を行う『荒川電車営業所』が当地に併設され、"荒川車庫"として都電の基地となっています
普段街中で見かけている車両も、車庫の中で見ると又違う魅力的な姿に見えるのが不思議です^
順路は、検修庫から一旦出た後~
再び別の入口から車庫内へ
お~
こちらは、部品交換等の細かい作業をする区画と思われますが、展示もいくつかありました
↑都電全盛期のお宝も多数^
都電の歴史を解説するパネルもありました。
ここで再度、都電の歴史を簡単に纏めておきます
1882(明治15)年開通の東京馬車鉄道を淵源とする都電、その後都内には3社の市街軌道会社が創業、その3社が合併して都電の礎を築き、後に当時の東京市が買収、公営となりました。
"都電"となったのは戦時中の1943(昭和18)年、東京都の発足により現在の交通局もスタートしました
関東大震災や東京大空襲も乗り越え、戦後も首都復興の足として活躍した都電、昭和30年代の最盛期には200kmを越える距離を運営していましたが、急激なモータリゼーションによる自動車との共存の困難さに加え、都交自身も地下鉄やバス路線の整備を進め、都電は次第に少しづつ、路線ごとに廃止がすすめられていきます
1972(昭和47)年、都電はついに、荒川線1路線だけになってしまいました。予定では荒川線も廃止される段取りだったらしいんですが、大半が専用軌道なのが幸いし、すんでのところで廃止方針を都が撤回、存続・改良していく事になりました
荒川線だけになった後は、ワンマン化や低床車導入等がすすめられ、現在の姿へなっていきます
東急世田谷線も専用軌道だったおかげで現存していますが、高度成長期の日本は、ヨーロッパのような"路面電車を街づくりに生かす"という発想が当時全く無く、ひたすら車優先でした。
近年になって、富山や宇都宮のLRT敷設や、札幌等での路線延伸がみられ、ようやく路電の価値を見直す流れが出てきました。辛うじて皮一枚のところで残った荒川線は、今後の東京の足のあり方に一石を投じ続ける貴重な存在になっています
そんな都電を、より多くの人に知ってもらおうというこの企画、大変goodだと思います
博物館等と違って、"生の現場"の空気を味わえるのが、こういう特別公開のいいところ^
朝から並んだ甲斐がありました^
そして、せっかく荒川車庫に来たからには、もう1ヵ所立寄り必須の場所があります。
そこは・
電停前にある、都電おもいで広場です
土日祝のみの開園です
都電全盛なりし頃の車が2両、保存公開されています。
いつも都電の車窓から眺めていたけど、中に入るのは僕この日が初めてでした^
2両とも、内部見学出来ます
↑の7500型は1962(昭和37)年製造。当初は青山車庫に配置され、都心の路線で活躍していましたが、都心各線廃止後に荒川線へ転属してきました。通勤通学輸送で活躍した事から、"学園号"の愛称も付いていました(※2001年廃車)
車内は満員電車状態でしたw
もう1両は、少し流線形の顔がスマートな感じの、5500型
1954(昭和29)年製造、戦前にアメリカの路電で導入された新技術(※当時として)が採用され、戦後日本の路電のモデルともなった車です。技術指導をうけた米国の団体名をとり"PCCカー"という愛称を持っていました。優美なスタイルと高性能な事から、銀座を経由する花形路線で使用されました
↓は、品川への系統廃線の際、さよなら運転した5501号の姿
廃車後、この5501号は上野公園で保存されていたそうです(驚)。
しかし、上屋が無かった事から荒廃がすすみ、後年この荒川車庫に戻されました。しばらく放置されていたそうですが、都電おもいで広場オープンに伴い再整備・公開。往時の姿が甦りました
5501号の車内には、都電の歴史を語るお宝の品々が展示
名の通り、都電の思い出がいっぱい詰まった広場でした
再び車庫前から、都電に乗ります
次に降りるのは、王子駅前電停
荒川線で一番主要な途中駅です。
横を↑JR京浜東北線が並行します
都電前身の私鉄3社の一つ、王子電気軌道が飛鳥山~大塚間で部分開業したのが、荒川線の始まりです。王子はいわば、荒川線発祥の地でもあります(※東京都北区)
なお、王電当時はここから赤羽への支線もありました(※1972年廃止)
電停内には↑渡り線があり、王子折返しの区間運転車も多く設定されています。又、ホームに係員が常駐し、都電一の主要駅である事がわかります。
なお同線は、全線走り通す便のほか、ここ王子/大塚駅前/町屋駅前/荒川車庫の各電停で折返し可能で、旅客動向に応需した細かなダイヤが組まれています
荒川線は王子電停で90°カーブしてJRの高架下を越え、早稲田方面へ南下しますが・
ここで、少し時間をとって、王子駅近くの飛鳥山公園へ寄り道してみたいと思います^
王子駅前~飛鳥山間は、短い区間ですが、同線唯一の路面区間になっています。
この区間は軌道敷内の車両通行可で、電車と自動車が渾然一体で走る姿が見られ、都電全盛なりし頃の面影が残る光景です
(※二輪車は軌道敷内通行禁止)
そんな併用区間の傍にある、北区民のオアシス・飛鳥山公園
通りから一段高い丘にあります
我が国で最も古い公園の一つとされ、開園は江戸期・享保年間(!)、アノ徳川吉宗が"庶民にも花見の名所を"と造らせたそうです
王子駅の出口近くから、↑"パークレール"というモノレール状のゴンドラでも行けます
園内へ入ると、喧噪の街中とは別世界^
土日にはフリマやキッチンカーが来たり、野外ステージでイベントもあり、さながら"北区の上野公園"的な雰囲気^
そんな園内の一角に・
飛鳥山公園にも、都電が1両保存されています。
子供の遊び場として日中開放されています。子供の安全のため窓ガラスを外してありますが、上屋付で置かれているため車体の状況は良好です
前述の、吉宗が開園させた経過を記した↑"飛鳥山碑"(※都有形文化財)
そして同園には、↑博物館が3つ並んでいます。
"紙の博物館"・"飛鳥山博物館"・"渋沢博物館"です
1998年に、なんと3館同時オープンしたとの事
このうち今作では、飛鳥山博物館を見学します(※北区立)
3階建ですが、公園の丘と通りの間に立地、丘側の入口を入ると2階です
常設展示は階段降りて1Fへ
受付の横にもう、↑大きな古代住居模型が
僕予備知識なしで来たんですが、内部は実質、"北区歴史博物館"の様相でした。23区の中でも、正直そう目立つ区でもない感もある^『北区』とは?を、同館で勉強していきたいと思います
人住の始まりは、約3万年前の旧石器時代にまで遡るという悠久の歴史を持つ北区。解説文が詳細かつ分かりやすかったです
縄文期の遺跡が区内に点在し、↑土器も多く展示
また、地勢的な変遷も詳しく解説していました。
↑地図の通り、縄文期に地球規模で繰り返した温暖/寒冷期の変化に応じて海岸線も浸食/後退を重ね、ちょうど武蔵丘陵と湾岸低地の境目にあったここ飛鳥山は、海岸線になっていた時期もありました
そのため、↑貝塚が区内複数箇所で出土。夥しい数の貝殻が数千年経った今も生々しい
↑北区を走るメトロ南北線と地勢の断面を重ねた図。武蔵丘陵がガタっと東京湾への低地に落ち込む飛鳥山付近の様子がよくわかります
土偶が↑見事にライトアップされ、謎めいた雰囲気^
弥生時代の↑住居模型。次第に他の地域との繋がりも深めながら、文明が進む様子を解説
律令体制になると、当地は"豊島郡"になり、その郡衙が現在の北区に置かれたそうです
そして時代は、戦国時代を勝ち抜いた徳川によって江戸が日本の中心に。ここ北区も、江戸期には街中から近い景勝地として賑わい、又、近郊野菜や園芸作物等の農業も盛んでした。これは、北区内には意外に川が多く流れ、水利が良かったからと言われます
そして前述の通り、ここ飛鳥山公園が吉宗によって造営、それまでは特権階級の娯楽だった"花見"を庶民も楽しむようになりました
都電の愛称・"東京さくらトラム"は、この飛鳥山公園の存在からです(※荒川区側からは異論も出たようですが)
展示室ラストは近現代でおわるんですが、近代の展示は少な目で、同館は古代に比較的重点をおいていました。
その少な目な近現代パネルでも、↑王子電軌はちゃんと紹介されていました。
又鉄道省では、現京浜東北線の王子駅開業が1883(明治16)年、開業時は上野の次駅が王子でした
ちなみに周辺の主要駅では、赤羽駅が1885年、池袋駅は1903年開業だったので、王子は古代から郡衙が置かれて以来、江戸の北玄関として要衝だった事が偲ばれます
話をもっと横道へ持っていくと、23区の中で"東西南北"だけの名が付くのはここ北区だけで、僕は「他にこれという名が無かったからかな?」と思ってたんですが、区発足時のネーミング案は百花繚乱の如く案が噴出したそうです。案が多過ぎた結果、わかりやすい"北区"へ収斂したのかも^
23区で北の要衝、今では池袋というイメージですが、実は王子のほうが歴史的にはずっと重厚だったという史実を、同館を見学してわかりました
北区は、1943年の東京都発足時は滝野川区/王子区の2区でしたが、終戦後の23区再編の際に両区が合併。北区として発足しました
同館の年表はちょっと控えめで^、受付/出入口の横にあります。
これまであまり知らなかった"東京都北区"の歴史がよく学べました^
残念ながら、渋沢博物館は改装中のため休館でした
次期の一万円札に登場する渋沢栄一、北区では"渋沢ゆかりの地として街おこしをしています
飛鳥山をあとに、都電荒川線に戻ります
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飛鳥山電停から再び南下、次に降りるのは~
次の主要電停は、大塚駅前です。山手線との接続駅なので、終日乗降とも多い駅です
電停は、↑山手線の高架下です
大塚駅前の南側で大きくカーブし、街中に突っ込むように曲がっていく光景も都電名物です
再び乗車、終点の早稲田まで乗ります
雑司ヶ谷付近ではメトロ副都心線の近くを走りますが、軌道敷近くは住宅地が広がり、王電当時の名残も感じる区間です
学習院下を出ると再び大きくカーブし、新目白通りの真ん中を走りますが、ここは併用軌道でなく一般車とは分離されています。
そして~
おつかれさまでした!終点・早稲田電停到着です
ここも、反対側の終点・三ノ輪橋と同じく、終端部は単線になります
乗車/降車ホームが別になっていて機能的です
電停から先の新目白通りは~
都電がプツッと途切れた先は、↑ごくふつうの道路に
この早稲田電停に来ると僕いつも思うのは、「なんとも微妙な所が起終点になっているなぁ・」という事
早稲田電停は、起終点なのに他鉄道との接続が一切ない上、周辺も特段に繁華街という事でもなく、マンションや会社が林立するのみの地域です。あえて言えば早稲田大学が南側にありますが、早大生は主に東西線の早稲田駅/JR高田馬場駅から通学するので、荒川線を利用する学生はあまりいないと思われます。
かつては同電停からさらに都心へ延びていたそうですが(※江戸川線)、1968年に廃止されています。
まぁこんな立地でも、東京なので利用者は絶えずあり、集客に心配はないんですが、僕思うのは、東へ800m程にあるメトロ有楽町線の江戸川橋駅まで延長すれば、かなり利便性がupするのでは?という事
勿論、道路交通との兼ね合いで難しいとは思うんですが、車の流れは警視庁とも連携して周辺道路との総合的なコントロールを考えていけば、都電と車の共存は不可能でないはずです。全国的な路面電車見直しの波に都も一役買えば?と思ったりもしますが・
あと、この際もう一つ、都電へWoから提案は、将来的には連接車の導入も検討してほしいなぁ、という事
現在の都電は全車単車で、運行上も連結等はなく、全て単車での運行です。頻繁な運行本数や乗務員さんの素晴らしい客捌きでスムーズに運行出来ていますが、よりゆとりある交通機関として永続していくためには、連接車にすれば定員がupするだけでなく、その分便数を抑える事も可能で、将来の乗務員不足にも資すると思います
昨年upした宇都宮LRTは3連接です。又、広電等他都市の路電でも連接車の導入が進んでいます。ヨーロッパ各都市では4連接や6連接といった長編成もザラにあり、東京も負けずに、荒川線を世界基準の路電に育てて頂きたいと願っております^
今作ここでゴールとします。下町風情が味わえる荒川線、周辺に見所も多く、一日楽しめる沿線です。東京の鉄路を語る時に忘れてはならない存在、東京さくらトラムでございました^
☆関連作リンク↓
vol.212 「た」現る 第19の巻 酉の市&練馬・石神井散策 そしてなぜか浜松町^ | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)
(※2015年upの「た」シリーズですが、練馬区立の博物館を訪れているので、北区との対比にご覧下さい)