記事の中段あたり、「閉まる!挟まった!」と記者が叫んでいる(叫んでいるのかな?)と場面がありますが、
危ないなら、躊躇せず「非常停止ボタン」を押せよ
と思います。相変わらずなマスコミです。
あと、ちょうど上記のプレビューの写真で小学生が渡っているが、
通学路としては、この踏切は使用せず橋上駅舎の連絡路を通ること、となっているのではないかと思います。
(確認はしておりません)
これまでの経緯
今から約30年前、赤い線の道路はありませんでした。(主要な道路)
水色の旧307しか東西を行き来する手段はなく、渋滞は尋常ではなかった。
当時私は、「一休寺」あたりに住んでいたが、田辺本町の交差点から府道八幡木津線の北側の"薪地区"まで渋滞し、
307も東は山城大橋、西は今の田辺西ICあたりまで渋滞してた。
この渋滞は主に新307が開通(1994年)することによってほぼ解消されました。
当時は渋滞を回避するためには、近鉄京都線上にまたがるように緑線(太線・細線)を引いていますが、太線は車一台がやっと通れる幅しかない踏切、細線は自転車歩行者のみが通れる地下道等で回避していました。
緑と水色の2重線を引いていますが、これは木津川の堤防沿いの道で、現在はどうなっているのか知りませんが当時は車も通れたので、”抜け道”になっていました。
また駅自体も1988年に橋上駅舎に変わりました。それまではそれこそ開かずの踏み切りのすぐ横が改札でしたので、感覚的になってしまいますが、危険度合は今とは比べものにならないくらい上でした。
当時の略図。改札だけでなく、各々ほぼ改札と直で、西側にはバスターミナル、東にはスーパーがあり、本当に危険だったと思いますが、当時はそんな「アブナイ!、アブナイ!」と声高に言う人はいなかったように思います。これは今と昔では違いますので、あぶないのであれば改善する必要はあろうかと思います。
ただ、過去から何にも変わってないのか? ということではなく、
1988年には橋上駅舎に
1994年には新307が開通しており、危険度合は少しずつ解消してきたことはまちがいないと思います。
これを根本的に解決するには、名誉教授を引っ張り出してきて、踏切を無くすしかない、と記事に書いてあります。
それはすぐには無理だから、踏切を通過する本数を少なくすれば、、、、と
近鉄のダイヤ改正を含めたところで記事としては終わっている。
いやだからマスコミさんはもうちょっと深く掘ってほしい。
似たような事例は全国にいくつもあるのだから、根本解決するには、どこそこでは何十億かかって、構想から完成まで20年かかりました、とかまで書いて欲しい。
恐らくいくつもある事例の中で、特に期間が短かった事例を持ち出して、なぜ短くできたのか調査し、それを提言というか、「一律に比較できないがこんな事例もあります」というところまで報道して欲しい、と思います。
ちなみに、完全に私見の改善案を。
幸いなことに、新田辺駅の北側には車庫があり、すでに用地はあります。
車庫は新田辺駅から南へ3駅目の宮津駅にも広大な車庫があり、車庫の代用は宮津でできるかもしれない。
そして問題は、踏切を挟んで右下の留置線への出し入れです。
新田辺での折り返し列車は、1,2番線につけることなく、直接3,4番線につけるようにしてはどうか。
案1
オレンジ色が新たに敷く線。
京都からやってきて新田辺で折り返す列車は、本線の渡線を通って、3,4番につけるようにする。しかしそうすると上り列車と干渉するので、干渉度合いを少しでも和らげるために、4番線からは干渉せず本線へ出れるようにする。
案2
案1の改良版で、一応、上下線が干渉しないような配線。
できることなら京都からやってきた新田辺での折り返し列車は、下り本線から3,4への渡るに際し、8両分ぐらいは一旦留め置きできるぐらいの長さがあればいいのかなと思います。
そして、右下の水色の留置線はほとんど使わないようにする。
案1、案2とも、道路も駅舎も改修は不要。
現状の車庫を少しつぶすことになるので、それで車庫が足りないのであれば、宮津駅の車庫で吸収できないだろうかと。